自分のする『言動』が、自分よりも外側のセカイを前提にしたところから、又は、個人的な価値観からくる『良い悪い』『善悪』などのジャッジしたところから来ているのか。その根っこが『愛』なのか、『エゴ』なのか。

四つの約束のドン・ミゲル・ルイスさんは、『正しい言葉を使いなさい』と仰っており、亀井さんはこれを『すべての人に罪はない』と解釈されていました。

 

 『言葉の周波数』ともよく謂われているかと思いますが、『X』のポストの投稿やyoutube動画のコメント欄なんかでよく見られる他者の解釈や意見をみると、私自身も、以前まではほぼ無意識にも『エゴ』から言動していたことがあるのでそれがよく伝わって来るのですが、例えば、嘘。自分の本音とは違って人に合わせた意見。なにかを隠している。裏がある。ドラマに嵌っている人のコメントや、被害者意識のある人の文章。賢い人だけれどどこか違和感を感じるもの。

優しい人の言葉は本当に優しいし、おもしろい人のは本当におもしろい。これはべつに私だけじゃなく、それぞれ文体から感じたことが誰でもあるんじゃないかと思いますが、つまりは、前者と後者の違いは『エゴ』が入っているかいないか。純粋な言動であるかどうか。

 

 ‐ 一般的に解釈される『エゴ』と、ヨガ哲学などのこちら側の界隈で云われている『エゴ』というのは、恐らくは認識の違いがあるだろうと思います。先述にもしているように、私自身も昨年の冬まで『エゴ=自分』だと思っていましたがそうではなかったのです。『エゴ‐自我‐』というのは切っても切り離せない、生涯を共にする一種の ”パートナー” ‐『もう一人の自分』『偽者の自分』‐ 。つまり『エゴ≠自分』。そして亀井さんが仰るには、『エゴ』とは複数の種類が存在すると云われているので、そのエゴを見つけるのは、自分一人の力だけでは難しいそうです。‐ 


 そのため、偽って吐いている方の言葉を見ると私はその人を見下していました。なぜなら否定があるからです。但し、その否定している相手は相手自身に対してではなく、本質的には『私』です。自分で自分を見下していたのです。

 『 目の前の人はもう一人の私である 』 ‐ 内なる私である。 ‐

 

 そこにはありとあらゆる意味合いが含まれる見方で、学んでいる人なら誰でもご存知かと思います。つまりは、相手のなにかしらの言動へ『否定』『批判』などのマイナス感情が湧いたとき、その相手のその ”部分” も自分の内側にある.ということを見せてくれている。

 元々私たちは『神』という一つの存在であり、目にはみえないところのその根っこでは ”ひとつ” に繋がっている。

昨年の十一月後半頃に出会ったある動画『フェリファブ哲学』。女性の方が配信されており、主にスピリット視点で語っていらっしゃることが多いという印象を受けましたが、その方が仰っていた、
 

 『「自分」という体験と、「他人」という体験』
 

 それを聞いた瞬間、私は漸く、上記のその言葉がすとんと腑に落ちました。だからこそ、自分が変わると自分の周りの人も変化していくのだと、嫌いだと思っていた相手が ”現れなくなる” 。これは単純にそのままの意味として捉えられる場合もあれば、少々ズレた意味合いの場合もあります。
実際に『CP』を習っていないので、亀井さんのお話や、彼の仲間であり、受講生だった方々のお話を、youtube動画からよく視聴して来ましたが、そこから受取れる、あくまで個人的な想像なので間違っていたらご指摘願いますが、『CP』では、”相手と自分との共通点を見つける”.ということが人と仲良くなるポイントで、”繋がり感が生まれ、共存が生まれる” とされています。それは状況や内容によって変化しますが、例として、相手への言動にマイナス感情が湧いたとき、自分の内側の声をしっかり聞いて、自分へ問いを投げる。なぜ相手のそれに対し私は『否定』や『批判』をもっているのか。なぜそういった『現象』や『出来事』が自分の前に現れるのか。なぜこのような現実をつくっているのか.など。これが『形而上学』と呼ばれる学問の基本の部分なのかなと、お話を窺っているとそう感じますが、つまり、目の前の相手は ”私” であって、”私” は『相手』にとっての内なる ”私” でもある。


 『自分の目の前で起こるすべての「現象」や「出来事」は(部分的)「結果」であってすべてじゃない。それらは私へなにかを教えてくれている、成長という名の ”バージョンアップ” へ繋がる必要不可欠な出来事。』そして、それは『真ん中のあり方』へリンクしているのだと思います。

 

 
 然しながら、今だからこそ時折ふとして思うのは、私の好きなキャラの『体格』への『執着』や、その真逆の意見をもつ他人様への『否定』が強いその要因のもう一つの側面として、私には ”仲間がいなかった” ‐ 私の意見へ理解してくれたり、それもいいねと云って下さる人との繋がりがなかった。‐ ことや、相手と ”実際に会ったことがない” 相手を ”知ろうとしない" 。それから、これは別の視点からですが、ずっと ”文章を書いていた” ことも可能性としては高いのではないかと考えます。
 これは2040さんが仰っておられたことですが、『文字』というのは、そもそもが人をコントロールするためにつくられたもの。実際に彼も、歌詞のある音楽は殆ど聴かないのだと『下町侍』 ‐ 此方の方もyoutube動画を通じて以前に知った方です。‐ さんという方が仰っておられたのを見ていて、もしかしたら私のこの体格においての『執着』というのも、『文字』や『文章』を読んだり書くことによって、『否定』『執着』が根深く強化固定されていったんじゃないか。その可能性も高いような気もします。というのも、文字を読むと『思考』が働くから.だと彼は仰っていました。

 

 私がその『執着』や『否定』をもった理由として、上記とは視点の違った要因がまだあるのかは分かりませんが、然しながら、私の独断での判断では未だ分からないのが現状です。


 次に、”ループ” というのは、二次創作時の以前までの私の行動を振り返ってみると、例えば、『好きな傾向じゃないとみれない』というのは、これまで嵌って来たすべてのCPに言えますが、自分とは違う解釈を目にすると、所謂『地雷』がよく走っていたのです。‐ たぶん地雷も含め、『怒り』や『苛立ち』の根っこにあるのは『悲しみ』。悲しいから怒っている、苛立ちがあるのだと、ある方の動画で学びました。‐

 

 そのときは気づいては居ませんでしたが、二十代前半頃から後半途中までは、地雷を踏むたびに自分と同じ意見をもっている人を必死に探しに行ったり、それでも見つからなかったときは絶望感に囚われ最終的には虚無になってはすべてにやる気を失くしていました。そして、これはその当時やっていた所謂『エゴサーチ』。わざわざ違う解釈のもつ人の作品をみては自ら悲しい気持ちにさせて泣くこともあったぐらい酷い状態だったこともあります。

私のこれまでの過去のどこを切り取ってみてもそうですが、本当に『不安』と『恐れ』という『エゴ』に塗れ、『自作自演』の世界に居たのだなと思っています。

 

 今ではもうやることはなく、たとえ見たとしても、これまで多くの方々が教えてくれたことや、『学び』に『気づき』から、『エゴ』へずっと呑まれていることはないのだと思うし、基本的に、その数時間後には普段通りの自分へ戻っていたり、長くて一日過ぎた辺りで回復は出来ていると思っています。『承認欲求』というのもまた薄まって来ている傾向ではあると思っています。


 心療内科へ行った日から九月二十二日までの間、私は地に足がつかずふらふらしていて、お金を借りる文章を書こうにも身体がこのときも重かったのです。冬までにはどうにかしたいという気持ちがあったのですが、どう考えても冬までには間に合わない。それというのも、身体の歪みの進行への恐れと不安があったからです。
 一番私が恐れていたのが起床時です。寒さによるストレスから、どこかの部位 ‐ 鳩尾 肩 歯の喰いしばりのどれか ‐ が常に力んでいるこの身体は、あくまで個人的な考えですが、捩れが大きく、クセも強くついてしまっているだけに歪みの進行が起きやい。その要因である前述に記した『働きたくない』と云う思い込みも含まれますが、然しながら、物質的側面からみても力んでしまっている箇所が強く固定されしまっていると思うので、これ以上のズレの進行を防ぐ.というのは難しいのかもしれません。今の段階で、癒して緩めてあげるにはもう遅いのだと思っています。それ故に、手足の先が冷たいことがいつもで、以前まではこういったことはなかったのですが、特に足先の血色が悪いことがあります。
又、就寝時には衣服の着用が無理なので、‐ これもお伝えしても伝わりづらいかと思いますが、衣服を着ると、身体の感覚が鈍くなるような感じがあって分からなくことが多いのです。そのために、普段着だと傾向的に似通ったものしか着用出来ず、寒い時期も含め寝る際には下着の着用も避けています。  ベッドから出ずに、リモコン操作でスタート出来る暖房器具が欲しいと思っていました。そのため生活保護が通ったら、朝起きる際に身体へ負担がかからないよう、室内を暖めてくれる暖房器具を買って、朝にお風呂へ入って身体を冷やさないようにしたい。生活保護ならお金の心配や不安もなくなるし、家は兄弟が支えてくれているので一人減ると、その分の負担が軽減されるだろうと思ってのことです。ただ一つ勘違いしていたことがあって、それが朝にお風呂へ入ってはいけない.という思い込みです。誰に言われた訳でもないそれを私が私自身へそう勝手に思い込ませていたのです。試しに朝お風呂へ入ってみると身体的にもあたたまって、朝がいつもより過ごしやすくなりました。ただ、どれだけ身体へ意識を向けていても、歪みの進行が留まることはないのだと思っています。
 
 『九月二十二日』のその日は、その機関の方の五、六回目の訪問で、そこでのお話から、『生活保護は自由に病院を受けれない』ということが分かりましたが、それを聞いた瞬間、え、と戸惑ったと同時に、どこかでホッと安堵をしていたのです。つまり、私のその安堵が答えでした。然しながら、同時に生まれたのがじゃあこれからどうすれば良いんだろうという不安と恐れです。

それから数日後に、自分なりに考えて出したのが、『歪んだ身体のままに生きていく』.ということです。治さないまま生きるということは、当然ながら不自由を自身へ強いる訳です。そうなってくると、そのときの私の頭は勿論将来の不安もあったけれど、私の行くべき方向性の輪郭が未だやわいことへの不安.といった方が正しいかもしれません。どの道へ進めば良いのか分からない。なら、もうこれは相談しかない.と漸くそこで思い、その整体師さんの元へ予約のご連絡を入れました。


 然しながら、『コーチング』『整体』『交通費』合わせて、三万一四百円(確か)程かかると分かってから、私は再度お金を集めようと文章を書き出し、そこに要した時間が一ヶ月です。そして十二月頃だったかにある方へ手紙を渡しに行ったのですが、ただそれも結局はまた違っていたのだと気づいたのがそれから一週間後のことです。べつにお金を借りずとも、それが今すぐにとはいかなくても、十万円以上の金額を除けばそのぐらいの金額は集められたはずでした。全部一人でなんとかしようと動いていましたが、私の場合は、借りやすい身内からの方が負担も時間もそれほどかからない。そのため、すぐに再度その方へ手紙を書いて断りを入れ、その整体師さんの方にも二〇二四年一月二十七日へ予約の変更をしてもらったのです。そして結果的には無事にその整体師さんの方の元へ行くことが出来ました。


 その方を選んだのには『CP』を受講されていたことや、メニューに『コーチング』の記載がされていたこと。そして、彼女のお人柄に惹かれここにしようと決めたのです。先述の通り、本当に行って良かったと思っています。未熟な部分が多いこんな私でも、ここにいて良いんだ.と、実際にそういった方と出会うことで、初めて認められた感覚に、私は嬉しさと安心を感じました。


 帰り際にはハグをして下さいましたが、整体師さんのその生きる力強さがより一層、接触することによって伝わって来て、私はこれからもずっと、抱きしめて下さったあのぬくもりを、忘れることはないだろうと思います。彼女の存在がとても心強く、安心させてくれました。
 

 『ハグ』というのは些細なもののようであって、習慣的にはとっても大事なことの一つなのかもしれないと思うようになり、『ハグ』は最初、聞いている限りは良いものなんだろうなぁぐらいの認識ではいて、ただ反対に、その必要性に理解が浅かった部分がありました。ですが、やはり ”実際の体験” ”本当の意味での本物” 。その ”リアルの体感覚” というのは当然ながら、単に個人的な頭での想像や思考、認識しているものと、”自分の身をもってちゃんと体験する”  というこの経験の差は格段に違う.ということを実感しました。それ故に、『ハグ』の体験してみるとそのイメージがガラッと変わったのです。何億年ぶりかってぐらいのハグは心地良く、とても素晴しいものでした。

 


 順番が間違っていたことや、この一年間の流れで共通していたのがやはり、私の勝手な勘違い。『思い込み』を前提にして来ていた.ということです。潜在的なものは無論未だいっぱいあると思いますが、顕在意識の部分で一つ勘違いを起こしたとき、私の場合、他者から教えてもらうか、そこに自分が気づくまで気づかないクセがある。

 改めて思ったのがその『潜在意識』含め、自分に入っている『思い込み』がどれだけその先にみえる可能性や幸せへの道へ進んで行くのを妨げていたり遅らせているのか。私自身も未だ認識のズレが起こっていることがあると思うので、”問いを投げる” ことや、”真ん中” を意識すること。そして、自分の本当の声へ耳を傾けてやっていきたいと思っています。『夢』『人生』『幸せ』のために。
 

 然しながら、昨年の私のその選択の間違いや思い込みがなかったのなら、整体師さんと出会うことはなかったでしょうし、 学びや気づきも、そのとき以上に深まることはきっとなかった。そして、”今の私” はここには居ない。そういう意味では、昨年の私を肯定的にみれる気がします。

 

 (8)へ続きます。