話は八月辺りへ戻り、その中盤頃のことです。姿勢の歪みで色々と億劫になってしまった頃、私は趣味であるBLで嵌ったものがあります。これが今の『二次創作を再開したい』と思う切っ掛けとなったのですが、それがあるドラマでした。久しぶりにそれが見たくなって、気晴らし程度にyoutube動画の方で、ナマモノは得意な方ではなかったのですがそこで検索し、なにか良いのがないか探していたところそのあるドラマへ興味を惹かれたのです。後にすぐ、衝動的に『hulu』で一気に視聴した後、『pixiv』へもう一度登録し、作品を見漁ったのを機に、どこにも投稿はしていませんがこれまで好きだったCPの創作も含め、心療内科の先生への手紙を書きながら同時進行で私は小説を書いていました。


 止めていた趣味へまた手を伸ばしてしまったことへの罪悪感と情けなさを覚えつつ、けれどどうしても手が止められなかった。又、これが『エゴ』からなのかが自分の判断ではよく分かりません。もしかしたら、これもやるべきことから目を逸らさせるための『エゴ』だったのかもしれず、或いは、『二次創作』をやるという行為自体がそもそもの私の『エゴ』だったという可能性もあります。

 然しながら、そこで改めて分かったことが幾つかあります。一つは、やはり短期でも長期でも、趣味から一度離れたからといって、『否定』や『執着』は『私』と長年連れ添っていたため根深く浸透している分、すぐには取れないということ。自分が好きな傾向しか見れない.こうじゃないと嫌だというその『執着』や『否定』は確かに今では緩和されはしている。けれどそうではなく、未だ、自分とは異なる解釈に対しての『否定』、そして自分の好みへの『執着』というのは、単に離れただけじゃ当然ながら完全には消化されずに残っている。つまり、新たに以前とは違ったお話やシチュエーションが目の前に現れたとしても、否定や執着をもっている限りはマイナス感情が再生される。

私自身は特にキャラの体格的部分においては、自分の好みのしか見れず、自分とは違った意見をされている他者への否定をもっています。

 

 ‐ なぜCPの左と右の子の体格にのみに感情が反応をするのかは別の投稿にまた記載しようと思っています。ただ正直なところ、今の時点では分からない。なにが切っ掛けでそうなってしまったのか、今の私一人の力だと分からないのが現状です。何れは解明したいと思っています。‐
 

 次に、”ループ” していた。
 

 二次創作へ嵌ったのが二十代頃からで、始めた切っ掛けは『エゴ』からです。それというのも『承認欲求』。その当時はそれを強くもっていました。又、変に『プライド』が高かったこともあったのでちゃんと表現力を磨きたかったし、ちゃんと文章の上達も望んでいました。然し元々がマイナーへ嵌ることが多くあったので、見てもらうにはちゃんとしたものでないと意味がない。そう思っていました。それ故に満足の行く出来る仕上がりになるまで作品の投稿が出来ないのが常で、然し結局のところ『長編』ばかりになって終わらない作品が多くありました。又、姿勢の歪みもあって文章を打つのが遅れていたり、なかなか気が乗らないというよりも、今ある以上の能力が出せないことへの悔しさや葛藤から文章が進まないこともありました。


 それは文章だけじゃなくすべてにおいてだと思いますが、今だからこそ思うのは、私の『能力』の伸びが浅かった根っこの部分では、『CP‐センターピース‐』の視点から見て前述しているその三つと、否定的な思い込み。『あり方』や『生き方』の他に、『運動不足』『画面ばかりを見ている』『食生活』『生活習慣のズレ』。『姿勢の歪み』。そして、自分自身の内側の問題は無論、ありとあらゆるすべてが複雑に絡み合って、その結果として繋がっているのでしょう。


 小説を書いて来て多分約九年以上になります。そんな中でも、誰かの言葉からヒントをもらってそこから自分なりの言葉をつくり出したり、例えば『類語辞典』をみて、この言葉を使おうと引っ張って来たり、この言葉とこの言葉をくっつけたら良いんじゃないか。この言葉から想像する関連性のあるものへ紐づけたりなどと試行錯誤をよくしていましたが、これは最近気づいたことですが、私は多分、お話を描くことは嫌いじゃなく、寧ろ、好きではあるんだなということです。それが『文章』でも、恐らくは『絵』でも構わないんだろうと思っています。

 


 誰かの解釈に対して自分のと違ったものの場合、その当時の私はよく傷ついていました。心臓から冷たくなっていく感覚や、勝手ながらも、自分と同じ解釈をもっていると思っていた相手が違った場合、冷や水を浴びせられたような感覚に陥ることがよくあって、つまり、『孤独感』や『悲しみ』といったマイナス感情。そして『裏切り』。それは『投影』や『過去の傷』へ当たるかと思いますが、ただ、その感覚と、そのキズが、私の過去のどこに結びついているのかがよく分からない。もう一つの可能性として考えられるのが、”二次創作を始めてからついたキズ” です。どこかの地点で、誰かの作品を見て私は傷ついた体験がある。その可能性も捨て切れません。


 今でこそ気づいていることは、一番肝心なのは、自分がそこで楽しめているかどうか。嫉妬や劣等感も無論あっても良いと思っていますが、それ込みでも、そこに自身の『思い』があったり、『感情』や『体験』をしっかり味わって楽しんでいるかどうか。なのではと思っています。それは二次創作に限った話ではなく、本当にすべてのことに当て嵌まることなのでしょう。


 ”ひとつ” が生まれればもうひとつの違いが生まれる。
 

 光が当たれば影が差すように、”違い” が生まれる.ということは極々自然なこと。
 自分の作品を見てほしいと、認められたいと願って描いた作品。それを一番に認められたいのは『私』であり、みんなに見せてあげたいという訳じゃなく、自分自身へ先ずは見せてあげる。実際に小説を書いているとある程度のところで満足出来ていたり、その欲求は消化されていく感覚は以前にも感じていたことがありましたが、私が一番に認めてほしいと思っていたのは私自身だったのです。


 その当時の私の感覚としては、メジャーCPの、特に人気キャラの右の子(のような性格や見た目)が ”(受けとして)正しい” .そういった ‐ 私がそう捉えていた ‐ 風潮や、今書いていて思い出しましたが、『左の子への扱い』(右の子が攻めのcp)。例としては、こいつだったらなにをしても良いとか、なにを言っても良いというような、そんな多くの声が轟いているような気がしてその当時は腹立たしくてなりませんでした。恐らくはこれも、私の過去の経験上の投影がかかっていたのだろうと思います。それがどうしても嫌で嫌で仕方なく、途轍もなく嫌いだった。そこに対してガッと感じた『怒り』や『悔しさ』に掴まれ、私はよくその勢いで小説を書いていました。ただ一方でじゃあ自分はどうだったのか。と言ったら、私もそう思っていた部分はあったのです、苦手とするキャラに対して。

 

 そして、これは前述とは少々ズレますが、『X』 ‐ 旧名称『twitter』をやり始めた頃からよくみかけていた。嫌われたくないからとか、人にこう思われたいからとかで本音を隠し、本来の自分とは違う自分を演じ大勢に合わせた意見を呟く誰かに対しての憤りも持っていました。これも『投影』と『否定』があります。
今では体格の面を除くとそれほど否定はないように思いますが、私自身、経験上から、嫌われる『恐れ』と『不安』から、自分自身へ偽って、他人の顔色をよく窺っていたこともあって、良くも悪くも、”人を見る目” はありました。それがたとえ姿が見えない画面上だったとしても、文字をみればどういった人間性なのかは無論その人のすべてではなく、あくまでもこういった傾向の人だという感覚です。

 

 旧名称ツイッター上での私は、その当時はべつに嫌われることへの恐れや不安は殆どなく、これが好き。こういう傾向が好きだと言えていたのは、私の本音を言ったところでべつに問題がある訳じゃないし、実際私の意見や解釈など数的にはマイナー寄り。今の時代だからこそ ”その人の好み” として受容れられる、ここの界隈は受容れてくれる人が多く、自分と他人を分けて考えられる人たちだという認識があったからです。受容れられなかったとしても、その人自身の好みだから不満はあってもなにも言えない。というのが雰囲気的に読み取れていたからです。

そして『雑食』の方々の存在です。彼女たちの存在がなかったら、私は自分の好きを言えていなかったことだと思います。彼女たちの存在が私にとっては救いでした。


 然しながら、その当時の私にあったのは、『恐れ』や『不安』よりも、『悔しさ』の方が勝っていました。特に『コロナ』へ入って以降、身体の歪み。友人だった人たちとのトラブル。マスクやワクチン論争。父親との大喧嘩。などと色々あっただけに、さらにその『悔しい』という思いが湧き起っていきました。そして『承認欲求』です。ただ、この文章をお読み頂いている方で、以前の私の発言を目にしていた方はもうご存知かと思いますが、所謂『真実』を語るようになりました。その根っこは『エゴ』 です。そうまでに至ったその『原因』や『要因』は、これまでに記して来ている通りです。

 

 (7)へ続きます。