『病院は自由に選べない』というのは、これは単純に私の不徳で調べが足らなかったのが要因です。ただ、実は昨年四月、役所へ行き始めた辺りの頃にあるサイトで、生活保護へ自由に病院を選べない。というのをみたのを切っ掛けに不安になってそこへ行って訊いてみたことがあります。返答は可能とのことでしたが、ただ、私の訊き方が多分、『生活保護は自由に病院は選べないと見たのですが…』とだけだったように思いますが、そこには県外の病院へ行くことも出来るのか?という意が入っていました。ですが私の問いはそれだけで、担当して下さったお相手も恐らく勘違いしたまま頷いたのだと思います。

そのときの私自身の理解が浅く、私の勘違いから気づくまでに数ヶ月以上の期間がかかってしまいました。
 

 ”順番を間違えていた” というのは、先ず、先に見ないととならなかったのは、私自身の内側が先だった。という意味です。というのも、先述した『不安』と『恐れ』から行動していた。というのがここへ繋がって来ます。
 

 『鶏が先か、卵が先か』

 

 この問いは時と場合によっては、その答えが ”両方” のことがあると思っていますが、昨年の私の場合だと、『卵』です。
 

 『卵』=自身の『内側』 ‐『思考』『感情』『意識』
 『鶏』=自分より枠の『外側』 ‐『現実』『結果』『現象』『出来事』

 

 つまり、自分の内側が先で、外側が後についてくる。
 

 そして、
 

 『 撒いた種「エゴ」ならば育った木々には「エゴ」の実が成る 』  by 亀井弘喜さん
 

 私自身はその『真ん中』 と『エゴ』から行動しないことを意識していましたが、まったく出来ていませんでした。寧ろ、『不安』と『恐れ』が根っこにありました。


 『真ん中のあり方』
 

 そこには、ありとあらゆる意味合いが含まれ、すべての場面において役立つあり方.だと私は思っています。
例えば、『人』は本来、自分の前に、自分よりも外側のセカイは存在せず、”ここ” に ”ある” のは ”『自分』のみ” 。

 

‐ 本質的に言うと『私』という『主語』はないのだとされます。例えば、亀井さんと2040さんのお話会のある音声ファイルから抜擢させて頂きますが、『出来るか出来ないかじゃなく、やるかやらないか』というお話です。彼がよく口にしている言葉で『体験』をすること。それが最も大切なことだと仰っておられます。というのも、本来の私たち『人』というのは『体験』をするために生まれて来ているからです。

『主語』のない ”自分” とはつまりそこで、例えば、『思考』自体が『エゴ』と言われる理由もそこへ密接に関係しており、『私はない』にリンクします。やるかやらないか。本当にそれだけで、自分が行きたいと思った場所や、やってみたいと思ったこと。これが欲しいあれが食べたい。あの場所で暮らしたい。を叶えるため、又は、それが真実かどうかを確かめたいのであれば、その間のあれこれとめぐる思考や想像は必要はなく、兎角 ”自分が実際に体験してみる” 。それが本当の意味での『現実』となり、『真実』にもなる。‐

 

 『前』 = 『軸』『基準』『前提』のこと。

 『外側のセカイ』 =、『常識』『他者』社会概念』『メディア』など。‐『集合意識/集合無意識』。‐
 

 然しながら、多くの殆どの人がしている、赤子の頃から刷込んでいく、自分よりも外側のセカイ。成長するに従ってそこを前提にしたところからの『選択』『思考』『ジャッジ』.又、 自分に関連しているもの ‐ 例:『性格』『価値観』『属』『界隈』など。これらを『捉え方の集合体』(by2040さん) 。ただ『性格』においては ”自覚の有無” が大事となってくる。‐ や、又、『(プラス含める)感情』や『エゴ‐自我‐』も同様に、そこに乗っかったところからの『選択』『思考』『ジャッジ』は、本当の意味での『自分』がしているものではなく、しているのは『偽者の自分‐「エゴ」‐』。本来の自分ではない。

 

 ”本来の自分” とは、『愛』。愛そのもの。そこには主語もなければ名前もないモノがただある。それは『エネルギー』又は『意識』とも謂われます。-

 

 自分の人生を自分よりも外側のセカイへ委ねていることを、”自分の人生を自分よりも外側のセカイへ明け渡した生き方”.と言います。その反対は、”自分の人生を自分よりも外側のセカイへが明け渡さない生き方” です。

 


 荒立っている海の中だと視界が定まらないように、どちらの方向へ進めば良いのか判断が難しくなる


 『撒いた種が「エゴ」なら育った木々には「エゴ」の実が成る』


 そのスタートラインで感情がほんの僅かでも動いている状態、宇宙の法則では、『投げたものが返ってくる』。つまりそれが『エゴ』ならゴールも『エゴ』。それ故に、”本来の自分” ‐ 愛そのもの ‐ というラインへ立ったところから、『思考』『ジャッジ』『選択』『言動』などを行うことが推奨されており、彼の以前の動画では、ちゃんと真ん中へ、本来の自分へ戻ることを、別の言葉で『感情の消化』 と云っておられました。


 荒々しい感情だったのが、穏やかに、静けさに満ちる ”本来の自分” へちゃんと戻ること。そのプラマイゼロのラインへちゃんと立つ。それが、”本来の自分” というものを見失わない手法の一つだと私は思っています。
 

 私がもっているマイナス感情が次第に薄らぎ、時に湧いて来ても呑まれなくなった、”本来の自分へ戻る” ための考え方。これまで得てきた『学び』や『気づき』以外にも、これからもまた、新たな『学び』や『気づき』。そして、『人』や『体験』からの教えなどに出会っていくだろうと思いますが、例えば昨年の十二月頃、亀井さんの動画を通し新たに知った『ディマティーニメソッド』。そのメソッドとは、『プラス』と『マイナス』は等しく同僚に存在するという考え方をもっています。先述にも記載していますが一見して否定的にとられやすい場面でも ”肯定の側面も同時に生まれている” 。亀井さんの動画でもよく謂われている前述でもお伝えした、『自分の目の前に現れるありとあらゆるすべての「現象」や「出来事」には「二つの側面」が存在する』 に繋がります。これを別の言葉で云い表すと、この出来事は私へなにかを教えてくれている。自分よりも外側の世界に存在するすべての ”他” を通し、"神" が私へなにかを伝えてくれている。ということであり、そして、『他』が存在しなければ『自分』を知ることは出来ない。存在出来ない。それもまた事実だと思います。


 目に写るすべては単に『結果』であって『部分(的)』にしか過ぎず、それがすべてではない。そして、『四つの約束』著者ドン・ミゲル・ルイスは、『すべての人に罪はない』という言葉を使用していましたが、こういった先述する教え以外にも、上記のそのあり方へリンクするものは未だたくさんあると思います。自分の人生を、自分よりも外側のセカイへすべてを明け渡さない生き方.であり、自分の操縦席に『自分』以外のすべて ‐『エゴ』『感情』『外側のセカイ』 ‐ ばかりを座らせないよう意識する。


 なにかを『選択』するときは『納得』と 『腑に落ちる』 .というこの身への深化を経るもの。『希望』を感じるもの。そして、”自分の人生に役立つ” 『役立ち基準』 ‐ by亀井弘喜さん ‐ を軸に置くこと。
 

 それ故に、私が先ずやるべきだったのは行動よりも先に第三者への相談。そして、『エゴ』に対してもう少し深く、理解へ落とし込むことがそのときの私には必要だった。


 然しながら、これまでに多くの方々の『価値観』『考え方』『意見』『捉え方』などへ触れ来て、『学び』や『気づき』を得ていても、これからも『自責』『他責』『否定』『憎しみ』などのマイナス感情が浮かんで来ることはきっとあるでしょうし、以前のようにまた、私の目の前で『キモい』『死ね』と云われたら、頭がまっしろになって、悲しみが湧いて来て、それが後に怒りや憎悪へと変化してしていく。それがこれまでの私のパターンでした。
 ただ、もしかしたら自分へ手が出てしまうかもしれない。言って来た相手になにをしでかすか分からない、そんな暴力的な自分も未だ居ることだろうと思います。実際、感情的になって自分自身へ暴力を振るうことはもう殆どなくなっていますが、身体の歪みから衝動的に殴ってしまうことは今でも偶にやってしまいます。
ただ、色々と学びを得て来ている分、『エゴ』や『感情』。そして『被害者意識』などへずっと掴まれていることはもう減っており、これからも、今以上に少なくなっていくだろうとも思っています。以前のように、ずっと俯いていることはなく、不恰好でも立ち上がるぐらいは出来るでしょう。それというのも  ”本来の自分” へ戻って来れる方法を知ったからです。


 『昨年の~』話へ戻りますが、この選択の間違いがなかったなら、私はその整体師さんと出会うことがなかったし、センターピースという直接的な繋がりがなくても、同じ志をもった人と繋がりたいという私の思いも果たされなかったことだと思います。そういった意味合いもあって、今の私は、その当時、私へ攻撃した ‐と捉える ‐ 人たちや、家族には、本当の意味での『感謝』や『赦し』というには未だ淡く、けれど確かに感じているのは、これまで頭に入れてきた、自分にとって役立つ知識をもとに、自分なりに考え、噛み砕きながら色々と実行し、腑に落として来たこともあって、その断片へ触れられているその感覚です。憎んでいるのかいないのかが、健在意識的な部分ではありますが、考えれば考えるほど分からなくなることもあるからです。


 彼らが居なかったら、家族が居なかったら、”彼ら” が ”彼ら” でなかったのなら、家族が家族でなかったら、”私” が ”私” でなかったのなら、”今の私” はここには存在せず、私の過去がああでなかったのなら、マスクやワクチンをしていた側でもあったでしょうし、もう一つの事実としては、この世は『自作自演』の世界です。つまり、『今』、この瞬間、このときのために  ”すべて”  が在った。これまでに出会ったすべての人や、すべての経験が私をここまで連れて来てくれた。”私” にとって必要不可欠な存在であり、必要不可欠な経験だった。私の成長という名のバージョンアップのためには。そして、”私”が ”私” を知るために。所謂『必要悪』です。
 今は色んなところで私たちは『映画の主人公』として表現されますが、つまり、”悪役”。そして、その悪役として登場してくれるキャスト。勿論その悪役として誰かの目に私は写っていることだろうと思います。

 

 ”私” が本当の意味での『愛』を学ぶためには、今日までのストーリーが存在しないとならなかった。
例えば、私が言えたことがじゃないかもしれないけれど、『戦争』『いじめ』『DV』『悪口』『盗み』などの、一見『マイナス』と捉えられる『現象』や『出来事』があるからこそ、『人』に『学び』と『気づき』が生まれ、成長出来る。『自分』のことを知っていく。つまり、『マイナス』と捉えれる側が居なければ、本当の意味での『愛』を知ることも、学ぶことも出来ないのだろうと、そう思うようになっています。

 

 昨年の投稿で申し上げている通り、私はこれまで、『受身側』『攻撃側』のどちらの側にもなったことがあって、最初は受身だったのが、後に攻撃へ回ったことが特に家族、両親へ多々ありました。そういった意味から、だからこそ、例えば、いじめで自殺してしまった子や、子どもへの虐待のニュースを聞いても、どちらの側にも理解は出来ると思っていますが、そんな経験を振り返りながらもこれまで学び、気づいたことから分かったことは、『攻撃側』も、『受身側』も、その両親、家族などには必ず、それぞれになんらかの ”原因” と ”経過” があって、”今の自分” 居て、結果として『現象』や『出来事』が生まれ、それが『投影』だったり、潜在意識下によって繰り返されたりしている。反対を言うと、ありとあらゆるすべての『現象』や『出来事』は、必然的に、”私” にしか起こせないもの。原因なくして人は人を攻撃はしない。

然しながら、過去の延長戦上で生きることは、もう卒業しても良い。


 『一般』『常識』側からみて『悪』とされる側や『マイナス』にしか見えない『現象』や『出来事』であっても、その先の未来の可能性、つまり、選択肢を増やし、世界を広げてくれる存在でもある。それを綺麗事でとか不謹慎とか思われるかもしれない。でもそういったものも『希望』と呼んでも間違いはないのもかもしれないと、今だからこそ言えることですが、私はそう思うようになっています。

とは言え、今はなかなか、その当時のことをふと思いだすと心からそうは思えないのが現実です。でも今は、そうやって理解しているだけでも良いと思っており、何れ、『赦し』や『感謝』が生まれるようになると、私は信じています。
 

 平原綾香さんの『jupiter』という歌詞にこういうフレーズが出てきます。

 

 『 愛を学ぶために孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない 』


 真ん中のあり方へ繋がるフレーズだなと感じますが、これも先述の通り、彼ら。家族。友人。など、これまで私が関わって来たすべての人たちは、私にとって必要不可欠で、彼ら。家族。友人らを通し、『神』が私へなにかを教えてくれていたのだと思います。

 

 (4)へ続きます。