会わせてもらえない子どもの卒業式と諦めなかった日々 | 夜明け前の寒さに凍える時・・・

夜明け前の寒さに凍える時・・・

離婚後17年間1度も面会交流をさせてもらえません
8年間で1度しか子どもの顔を見れなかった時期もあります
顔も知らない我が子会いたさに理不尽な壁に苦しむ毎日でした

それでも諦めない事が奇跡の再会につながりました

子どもが1歳半の時に離婚してからもう11年近くになりますが、一度も面会交流(子どもと会うこと)をさせてもらえません。 

 

この11年間何度も何度もお願いをしてきましたが子どもに会うどころか話し合いにも応じてもらえませんでした。 

 

また、裁判所で調停をお願いすると居場所が分からなくなったり子どもを何度も転校させ、離婚をしてから8年間で1回しか子どもの顔を見た事がない期間もありました。 

 

そして、裁判所から子どもと会わせるように判断が出ても無視されて未だに会う事が出来ません。 

 

ただし、そうなった原因は全て自分の責任です・・・。 

 

結婚当時はとても仲が良く、誰もが2人を見ては呆れるほどの仲でした。 

仕事のストレスで自分から理由もなく強引に離婚をしてしまい、その後元妻と子どもには大変な思いをさせてしまいました。 

 

離婚届受理の通知が役所から届いた時に事の重さに初めて気がつきました・・・・・。 

本当に馬鹿な事をしたと思っています。 

 

元妻と子どもがいなくなった部屋で毎日朝起きて眠るまで思う事は、いつも一生懸命に尽くしてくれた元妻への申し訳ない思いと大変な思いをさせてしまった子どもへの後悔ばかりです。 

 

この11年間自分の愚かさに押し潰された日々を過ごしていました。 

 

毎月のようにお詫びの手紙を送り、東京から熊本に何度も謝りに行きましたが、元妻と会うどころか顔も見れない状況でした。 

 

熊本に謝罪に行っても事を荒立てる事なく、実家のご両親から「帰れ!」と言われればすぐに帰りました。 

 

身勝手に離婚した自分へのお怒りと罪と思い、言われた事を受け入れるしかありませんでした。 

 

それでも大好きな子どもの顔を一目でいいから見たい・・・。 

 

子どもはどんな風に成長しているのか知りたい・・・。 

私から離れるといつも大声で泣き叫び、あんなに懐いていた子どもの声と温もりを忘れる事が出来ませんでした。 

 

諦められずに何度も熊本に行きましたが、自分の努力が足りず離婚後5、6年の月日が過ぎていきました。

 

子どもが小学校1年になり、学校に行けば子どもの顔が見れるのでは?と思い会いに行きました。

 

でも、子どもの顔も姿もわかりません・・・。 

そこで下駄箱に手紙と家族が写った写真を何枚も入れ、放課後校門で待っている事を伝えました。 

 

待っている間は、ずっと「どうか会えますように!どうか会えますように!」と必死に願い続けました。

 

そして校門に来た我が子の笑顔は今も忘れる事はできません。 

お互い顔も知らないのに、いろんな事を話すうちにあっという間に親子の関係に戻りました。 

 

母親の事や家族3人で一緒にいた頃の事、ダメ元で送っていた子どものプレゼントの事をいろいろ話しました。 

 

子どもは嘘ではないと分かった瞬間にお互いの長い時間の溝は消えました。 

そこで初めて「パパ」と呼んでもらえました。 

 

通り過ぎていく同級生の女の子が「鷹寛くんのお父さんバイバイ」と言ってくれました。 

 

その時の鷹寛は「僕にもお父さんがいるんだよ」という笑顔でした。 

 

今まで子どもは父親の存在を何度も聞いても一切教えてもらえなかったそうです。 

今こうして初めて父親の存在を知る事が出来ました。 

 

※この時に子どもの写真を撮っておけば、その後に大変役に立ったのですが、嬉しさのあまり撮り忘れた事がその後大きく左右する事になりました・・・。 

 

翌日再度学校に行くと相手家族に見つかり、そこから子どもとは会えなくなりました。 

 

これ以上は自力では無理と思い、家庭裁判所で面会交流(子どもと会うこと)の調停(話し合い)を申し立てました。 

 

面会交流は子どもの権利であり、申立てれば簡単に会えると聞きました。 

また、裁判所に通う間は、子どもに会ったり、物を送ったり、手紙を送るのは良くないと言われました。 

 

言う通りにすれば子どもに会えると思い、耐えに耐え、ここから調停、再調停、審判、高裁までの3年間言われるまま馬鹿正直に過ごしました。 

 

これは全くの無駄な事で、むしろ子どもとの距離を作ってしまったと後悔しています。 

 

子どもに会う為の現実は全く話の違う事の連続でした・・・・・。 

 

また、調停中に相手の住所が不明になったり、子どももどこにいるか分からない最悪の状況になってしまいました・・・。 

 

この時はもう何もかもが終わったようなどん底の人生でした。 

毎日子どもの事を考えては泣いてばかりいました。 

 

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そんな中、高等裁判所で抗告の最中、子どもが4年生になった時に熊本で大きな地震が起きました。 

 

TVをつけると、見覚えのある風景が沢山映っていました。 

それは一番被害の大きかったのが実家のある益城町だったからです。 

 

 

 

時間が経つほど、犠牲者の数が増えていきました。 

益城町でも多くの方が亡くなりました。 

 

 

でも子どもの居場所も連絡先も知らない自分は安否さえ分からず、半狂乱な思いで映像を見ていました。 

 

「子どもを捜さないと!」

 

急いで準備をして航空券を買うと2度目の地震が起きました。 

これで空港も全ての交通機関が止まり、熊本は陸の孤島になりました。 

 

我が子の為に何も出来ないばかりか、行く事すら出来なくなりました・・・。 

 

「諦めちゃダメだ、諦めちゃダメだ」と必死に何度も考えて、飛行機で福岡まで行く事にしました。 

そこから熊本まで12時間かけて自転車で行きました。 

 

そして何か月もかけて、顔も知らない我が子を捜し続けました。 

 

震災当時の益城町はTVの映像で見るよりも酷い状況でした。 

 

沢山の家が屋根から潰れ、とても助からないような建物もありました。

1階だけが潰れ、まるで平屋のよう建物やアパートもありました。

 

水も電気もガスも完全に止まり、食料もなく自販機も使えません。 

避難所は避難してきた人の群れで、とても子どもを捜せるような状況ではありませんでした。 

 

「たかひろ パパだよ」と予め印刷した紙を持って避難所を回りますが全然見つかりません・・・。 

 

 

そもそも子どもの顔も知らないのと、知らない人ばかりで何のツテもなく焦る思いの中、時間がどんどん過ぎていきました。 

 

震災時の益城町は4月だというのに夜は息が白くなるほど凍えるような寒さでした。 

避難所は人で溢れ、外で寝ている人も大勢いました。 

 

自分も何も持たずに飛びだしてきたので毎日避難所の外で凍えていました。 

「ダメだ、一度帰ろう・・・」と思った時に周りを見ると、被災して苦しんでいる人の姿がありました。 

 

あまりにも酷い惨状で放っておく事も出来ず、帰るのはやめてボランティアを始めました。 

 

一番大きな避難所にいれば子どもと会えるのでは?と思い、総合体育館という1600人も被災された人が集まっていた避難所で喫茶店のボランティアを始めました。 

 

 

(くまカフェにくまモンが来ました)

 

沢山の人達をお世話しながら励ます一方で、反対に子ども捜しを励ましてもらう事が多々ありました。 

 

しかし、震災当初からはじめた喫茶店が5月一杯で閉鎖される事になり、残すところ数日になりました。

鷹寛は見つからず、もう帰らないとダメなのか?と悩みました。

 

普段炊き出しに来た方々に寄せ書きをお願いして集めていました。

そこに自分の足跡を鷹寛に残し、総合体育館の入り口に張りました。

もし、鷹寛が将来ここに来た時に気付いてくれたら・・・。

そんな切ない思いで書きました。

 

閉店まで残すところあと3日の時に、一緒にボランティアをした子どもが「同じ学校にいましたよ!」と捜してきてくれたのです。

 

もう心臓がバクバクの思いでした。

 

善意で始めたボランティアのおかげで、今までどんなに捜していても見つからなかった我が子との再会になったのです。 

 

そこは自分がボランティアをしていた一番大きな避難所から1kmほど離れた小学校でした。 

そこも避難所になっていましたが、捜しても気づきませんでした。 

 

生きててくれて本当に良かった! 

我が子の安否が分かった時にこんなに嬉しい思いはありませんでした。 

それほど被災地は酷い状況だったのです。 

 

そして、ずっとしたかった事です。

 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ 

 

もう子どもを抱きしめずにはいられませんでした・・・。

 

小学校1年になったばかりの顔と姿と違い、すっかり大きくなって全くの別人のようでした。 

これでは捜しても分からないはずです。 

 

※震災の時の様子は長くなるので改めて書きたいと思います。 

(令和2年4月に書き足しました)

https://ameblo.jp/noraneko1234567/entry-12589554859.html

 

 

 

奇跡の再会から4回会う事が出来ました。 

 

しかし、これがハッピーエンドではなく、会っているのを学校に見つかり子どもはまた転校させられてしまいました。 

 

やっと会えたのに父子の関係は一瞬で消えてしまいました・・・。 

また一から振り出しに戻りました・・・。 

 

震災のあった年の熊本は梅雨の時期はこんなに降るのかと思うほど連日の大雨でした。 

豪雨で亡くなる人も出る位に異常気象が続いていました。 

 

それでもドシャ降りの中、毎日ずっと子どもを捜し続けました。 

しかし、やっと見つけた学校でしたが、子どもを見に行くと何度も警察に通報されるようになりました・・・・。 

 

警察の方と話をする度に、「血の繋がった親子なのになぜ・・・」と何度も何度も深い溜息しかこぼれませんでした。

 

それでも転校先の小学校も被災した方々の避難所になっていたので、救援物資を届けに行きながら諦めずに何度も子どもの様子を見に行きました。 

 

子どもの方ですが私と会っているのが見つかったら怒られたり、また転校させられる恐怖があり、会って話すことは出来なくなってしまいました。 

片親疎外という状況下で子どもは大変な思いをしていました。 

 

自分も子ども時代は離婚により同じように片親阻害のような生活で大変でした。 

なぜ離婚したら別居親と会ってはいけないのか? 

なぜ怒られるのか? 

なぜ別居親の悪口を聞かされるのか? 

 

誰かに「親に会いたい」と言って監護親に知られた時の恐怖は心にとって重圧でしかありませんでした。 

自分の本音を話したり態度に出せない事は子どもにとって心の成長の阻害でしかありません。 

 

何度も児童相談所に相談に行き、子どもが可哀そうなので転校だけはさせないようお願いをし続けました。

効果があったのか転校だけはなくなりました。 

 

前回のブログにも書きましたが、その後、諦めず通い続けましたが子どもの姿はほとんど見る事は出来ませんでした・・・。 

 

本来、面会交流がキチンとできていたら親子の間に隔たりもなく、子どもにはいろんな体験や経験をさせてあげられたと思います。 

 

普段離れていても面会交流の時間の中で子どもの悩みや苦しみを開放してあげたり、一緒に笑ったり、喜びを感じ触れ合う事は心の成長にかけがえのないものです。 

 

それが何一つ出来ず、小学校生活を過ごす子どもが不憫でなりませんでした・・・。 

 

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そして、震災当時小学4年生だった子どもは6年生になり、今年卒業を迎える事になりました。 

 

 

3月20日は市内の小学校はどこも卒業式で、路面電車から見える外の景色は学校に向かう親子の姿が沢山ありました。 

 

本当なら親子3人で手をつなぎ同じように歩いていたかと思うと申し訳ない思いで只々下を向くしかありませんでした。 

 

学校に着くとちょうど卒業生の入場の時間で子ども達が外で並んでいました。 

中に入れなくても一目でいいから鷹寛に会えたら・・・と胸が熱くなりました。 

 

すると近くの先生に声をかけられ、職員室の方へ行くように言われました。 

また警察を呼ばれて排除なのか・・・・と思いました。 

 

今日で小学校も最後、せめて一目でいいから小学生最後の鷹寛の姿を見たい・・・・。 

またダメなのか・・・・。 

親子なのにどうして・・・。

心の中で寂しさと虚しさが入り混じった思いでした。

 

付き添う先生に「いつもすみません」と謝りました。 

 

先生の案内で職員室近くの事務所に行くと、すでに卒業式が始まっていて「受付はいいので、もうどうぞ」となりました。 

 

いつも鷹寛を見ているだけで警察に通報されましたが、自分がただの父兄と思われたのか対応してくださる先生方はいつものような不信の表情と違い、とても優しく温かい対応でした。 

 

そして追い出される事なく卒業式に参加する事ができたのです・・・。 

 

 

中に入ると1歳半で離れ離れになった子どもはこんなに大きく成長し、10m位離れた正面に立っていました。 

 

 

卒業証書授与された光景を見た時はもう嬉しさと子どもの成長に目が熱くなりました。 

 

「今まで何度も転校させられて大変な小学校生活だったけど、よく頑張ったね。お父さんのせいでゴメンね、ゴメンね・・・。」と何度も心の中で謝り続けました。 

 

卒業生が1人1人声を出す「別れの言葉?」もしくは「門出の言葉?」では久しぶりの子どもの声を聞く事ができました。 

 

合唱も3曲も聞けました。 

 

今まで生き別れのような状態の親子でした。 

学校に来ても遠くから誰だか分からない姿を、もしかして鷹寛では?と見るのが精一杯でした。 

 

今日は小学校最後の日ですが、10m位先に子どもがいて、声が聞けて、しっかりと顔が分かる状態で1時間半も一緒に時間を過ごせたのです。 

 

離婚して11年近く経ちますが、30分以上一緒の時間を過ごした事は一度もありません。 

 

今日までのいろんな出来事と思いの中で、子どもの卒業式に参加し最後まで見れた事は夢のような幻のような信じられない大切な時間となりました。 

 

親として子どもの成長が見れる事はどんな事よりも幸せな事だと心から感じる事ができました。 

そして、諦める事なく、泣き寝入りする事なく捜し続け、どんな障害があっても会いに行き続けた事が夢のような時間につながりました。 

 

自分は親が離婚をしていて卒業式の親子の時間も思い出はありません。 

自分の子どもには同じ思いをさせたくないといつも願っています。 

 

 

親子で手をつないで卒業式に参加する事はできませんでしたが、鷹寛には父親が来た事がわかっていたはずです。 

 

片親阻害の中で、それをどう感じているか今は分かりません。 

でもいつか父親の想いが分かる日がくればと思います。 

 

 

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今まで学校で何度も警察を呼ばれたり排除されたりいろいろな事がありました。 

それでも小学校には子どもがお世話になり感謝の気持ちしかありません。 

 

今までご迷惑をかけて本当に申し訳ございませんでした。 

こんな形でしか子どもに会えない事をお許しください。 

 

また、離婚によって会えない親子が沢山いる事を知ってください。 

 

会いたくても言葉に出せない子どももいます。 

片親阻害のような状況では本心と真逆の事を言わざるえない子どももいます。 

 

どんな形で離婚をしても親子は親子に変わりはありません。 

お立場があり、関わりたくない事もあるかもしれません。 

でも、別居親を排除しても親子の問題は何も解決しません。

 

子どもが会えない親に会う事に罪悪感を持たせるより、温かい目で見守ってはいただけないでしょうか。 

 

これからも同じような事があるかもしれませんが、温かい対応をどうか宜しくお願いします。 

 

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最後に鷹寛の面倒をみてくださった6年の担任の先生、本当にありがとうございました。 

心の広い優しい先生で感謝の気持ちで一杯です。 

 

排除の中で、差別する事なくキチンとした対応をしてくださり、いつも涙がこぼれそうでした。 

これからも素晴らしい先生でいてください。

 

ありがとうございました。 

 

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鷹寛へ 

 

小学校卒業おめでとう。 

 

何度も転校で辛い事があったと思います。 

本当にごめんなさい。 

 

それでも鷹寛が大好きで仕方ありません。 

こんなお父さんを許してください。 

伝えられない事ばかりですが、いつも鷹寛の事ばかり考えています。 

 

中学校では環境が変わり辛い事や嫌な事もあります。 

それでもいつも明るい元気な鷹寛でいてください。 

 

苦しい事や困った事があればいつでも駆けつけます。 

どんな事も心配せずに教えてください。 

いつでも待っています。 

 

 

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<あとがき> 

 

子どもの成長は早く過ぎていき時間は待ってはくれません。 

反対に子どもとの再会は長く時間がかかる道のりです。 

 

この世界に足を踏み入れた瞬間、理不尽な思いとそれまで知らなかった事の連続でした。 

 

自分は辛くて悲しくてずっと何年も泣き続けました。 

涙の量は日本一だと豪語できる位泣きました。 

 

この11年間、人が思いつくような事は全てやってきました。 

今はこんな形でしか子どもに想いを伝えるしか方法がありません。 

 

人それぞれの困難な状況があると思います。 

 

会える人は簡単に会える。

でも会えない人は会えない。

 

そんな時はどんな事も否定せず、諦めずにいろんなやり方で行動するしかありません。 

 

誰かが何かをしてくれるのを待っていても何も変わりません。 

 

子どもに会えないお父さん、お母さん、苦しいけれど負けずに頑張ってください。 

 

皆さんがいつかお子さんに会える事を応援しています。