朝起きて、いわきに行こうと思い立ち、郡山駅で磐越東線の時刻表を見ると、
1時間に1本と…。ならば高速バスだと…こちらは少し待てばで間に合った。
薄磯。
豊間の人に言われ向かって立ち尽くした、もう一度行って手を合わさねばと、
ずっと心に引っ掛かってた場所。
いわき駅の案内所で聞くとバスが出てると言う。乗り場で再び運転手さんに聞くと、
灯台入口という停留所が出来たと言う。バスは新舞子の近くを通り、沼の内に。
約2年前、友達と通った道の記憶が蘇る。切通しからまさかの被災街の真ん中へ。

灯台入口で降りる乗客は、私と、後で話を交わすこととなるN君の2人。

土台だけ残った家屋の間を歩き、薄磯海岸を歩く。当時避難所になってた湯本二中と連絡を
取り、物資を運ぶ手立てをした同級生に電話をする。波に打ち寄せられたソフトボールを拾う。
その先には、バスで一緒だった青年が砂浜に屈んでる。思い切って声を掛けると、本日開催の
いわきサンシャインマラソンに出場する筈が、故障して欠場。友人のスタートを見送って
薄磯を調べて来たと言う。初めて津波の爪痕を見てかなりナイーブになってる。
拾った工作用のナイフを見てジッと考え込んでる。ボールもナイフも中学から流され戻って
きたものだとは思わないが、中学に置きに行こうよと声を掛け暫く一緒に行動した。

ふと海岸から見ると、観光バスがひっきりなしに減速しながら通り、中には5分位停車し
降りていく人達も。彼らはそこで何かを感じたのだろうか。
豊間中学校。
波に押されひね曲がった体育館の鉄骨が今でも残る。校庭は瓦礫置き場となってる。

瓦礫を仕分けしてる作業員さんが置いたと思われる人形と子供のおもちゃ。
そこに2人が拾ったボールとナイフを置く。N君は積み上げられた瓦礫の前で佇んでる。

木彫りの仏像。瓦礫の中から取り出して、洗って置いてる作業員さんの心を見た気がした。

残された家の土台には所々に色とりどりの花の絵が描かれ、堤防にも絵が描かれてる。

堤防には薄磯で亡くなられた人達を弔う焼香台が設えてある。
毎月11日、午前8時半から読経が営まれてるのを後に掲示板で知った。

私は切通しに戻り沼の内漁港側へ。魚の加工工場の堤防の外には沢山の鴎が羽を休ませてた。

滞在2時間。1時間に1本のバスに乗るため再び戻る。あの日、車両交通止めで歩いて入り、
立ち尽くした場所。4月下旬になっても放射能の影響で家々の瓦礫がそのまま残されてた道。

こんなに広かったのかと思う。いわきは、小名浜、豊間、新舞子、四倉、久之浜など惨状を
目の当たりにしたが、薄磯は、南相馬の20㌔圏境と同様に、私にとって死ぬまで忘れられない
場所となっている。

つづく。