昭和49年当時に、女性に優しい企業??

キャバレーの託児所の時間は、のらくろ少年の記憶に色濃く残っています。



いわば、その後の人生の原点になった体験だと思います。



一人っ子の、のらくろ少年の今までは飛び出して来たアパートの周りに住む、裕福な家の子供たちのことしか知りません。



身なりはいいし、親の教育もハイソサイヤティというか、ピアノや習い事をしていて、言葉遣いも丁寧。



行動もなにか大人びていて、お行儀のいい子たちしか知りません。


一方、託児所にいる面々。


実にバラエティに飛んでいて、歳もバラバラ。

一番上は小学校2年生ほどで、一番下は、まだハイハイしている子も何人かいました。


夕方の母親のご出勤に合わせて、時間差で続々と子どもたちが、手を引かれ、20畳ほどのビルの一室にある託児所に集まってきます。

母親と離れるのが嫌で、泣き叫ぶ子たちを毎回、何度も見ます。


それもそうでしょう。
皆、なんらかの理由で父親がいない状態。
親は、母親しかいないわけですから唯一安心な存在と離れ離れになることは、両親がセットで揃っている子供とはまた、違う感情だと思います。



のらくろ少年も、父親にさよならして、わけもわからず託児所に置いていかれた初日には、母親がこのままここに、自分を捨てていくのではないのか??



と思い、涙が出るという余裕のある心理状態でもない、切羽詰まった心持ちなので泣きもしませんし、泣いたところで殴られるのがオチだしで、



エレベータに乗り込もうとする母親の後ろ姿を、じっと見つめていたのを憶えています。

さすがの母親も、乗り込んだエレベータの中から見えた、我が子の悲壮な表情にほだされたのか



さすがに降りてきて、もう一度そばに来て、大丈夫だから、すぐに戻ってくるからと、のらくろを少年をなだめました。



そんなやりとりは、最初の一回だけで、二回目からは、明るく



母親
「じゃ、行ってくるねー😁


とテンション高めにエレベータに乗り込んでいきました。


いかにも、母親らしい。


母親は、晩年、

「あの頃が華だった。夜の蝶だったよ。」



と、当時を振り返っては目を細めていたくらいですから、お水の生活をお金のためとはいえ、存分に謳歌していたんでしょう。


お店はグランドキャバレーといって大規模店舗。


バンド常駐、ダンスフロアもあり、定期的に有名な歌手を招いて営業していた地元でも最大手のキャバレー。


百人を超えるホステスさんの中でも、だいたいナンバー2の位置を長い間キープしていたようですので、相当浮名を飛ばしていたに違いありません。



女子更衣室には、売上順位表が張り出されていて、仕事終わりにホステスさんたちが皆、それを見ながら一喜一憂し、母親に称賛の声を上げるという光景を何度も見て憶えています。



当然、母親は店でも、おおいばり状態で幅をきかせていたのでしょう。


見た目は、お世辞にも褒められたものではないと思われますが…。


口も悪いし、男勝り。
そういうところが、お客さんに受けた、ということなんでしょうね。


まあ兎に角、負けず嫌いの競争心の塊。

全日本女子バレー監督の、中田久美さんのホステスバージョンですから。



あとは、爆乳でした。
前にも言いましたが。



余談ですが、母親も高校時代女子バレー部出身で、バリバリのスポ根女子だったそうで、地元大会でも強豪だったようです。


東京オリンピックの東洋の魔女を、たいへんに崇拝していました。



話は、逸れましたが、託児所にのらくろ少年を置いてエレベーターに乗り込んだ瞬間、夜の蝶に変身していたのでしょう。


兎に角、毎回フロアに行くのが楽しそうでした。

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