平成30年2月10日印刷
平成30年2月20日発行

アメリカ大陸産の銀や農作物が全世界に広がったことが、「世界の一体化」の第一歩となった。(p120)

「世界の一体化」とは世界史の舞台が広がったこと、各地域の交流や結びつきが深まったことの2つの意味がある。(p120)

また(欧米以外の)他の地域が完全に受け身に回ったわけではない。貿易ネットワークにより繁栄していたアジア諸地域では、ヨーロッパとの力関係が逆転する18~19世紀にも成熟や発展が続き、日本の明治維新を含めて、近代化や工業化などの努力も開始された。(p120)

洪武帝は息子たちを全国に王として配置するなどモンゴル帝国の制度も取り入れており、明初の体制は、モンゴルを継承する側面(*里甲制・衛所制はモンゴルの千戸制をモデルにしたもの)と、中国の農村社会に基盤をおく側面の両面をもっていた。(p122)

オイラト部は、モンゴル西部のチンギス家ではない首長が統率する遊牧部族の連合である。(p123)

厳しい交通・交易管理は内陸でも同じで、モンゴルや女真との交易は、朝貢の形式をとらせたうえ、経路・人数・回数に制限が設けられていた。このため、しばしば貿易の拡大を求める勢力との衝突が起こり、土木の変の一因にもなった。(p123)

日本と朝鮮の間でも、貿易のための証明書を交付し、窓口を限定して交流する方式がとられた。両国間では、対馬の宗氏を窓口として、室町幕府と朝鮮は対等の関係で、西日本の大名・商人は朝鮮に朝貢する形式で、貿易が行われた。(p124)

マラッカは鄭和の船団の寄港地として、明をうしろだてにマジャパヒト朝やアユタヤ朝の干渉を排除し、マラッカ海峡を支配した。明の対外政策が消極化すると、西方への香辛料輸出を増やし、かわりに綿布をもたらすインド商人などを通じて、イスラームを受け入れた。この結果、マラッカの商業ネットワークの拡大につれて、島嶼部にイスラームが広まった。(p124~125)

16世紀にマジャパヒト朝が衰えると、古代以来のヒンドゥー教・仏教文明は、バリ島のヒンドゥー教を除き、島嶼部から姿を消していく。ただし、現在でも島嶼部のイスラームには、土着の慣習(アダット)と並び、ヒンドゥー教の要素が混在している。(p125)