もう何年も前から、ふと。不意に。なんとなく。不思議に思ッている事があります。それは、人間という塊を構成している数多の細胞は数週間で全て入れ替わるという事。そして、それを繰り返しながら生きているという事。
以前にも、
書いたかもしれませんけど。
つまるところ。細胞が本当に総入れ替えしているのなら、それ以前のオイラとそれ以後のオイラは、はたして同一人物なのだろうか?と、いう事。
面々と連なる記憶という意識があるかぎりにおいて、たぶんきッとオイラはずッとオイラなのだろうけれど、その記憶は全て鮮明というワケではなく、大小そして時期にかぎらず曖昧なモノも多い。
それッて、
劣化コピーという事なのだろうか?
新しく入れ替わる際のコピーになんらかのミスが起きているのだとするならば、やはり以前のオイラと以後のオイラは同一人物と言えるのだろうか?
成長と衰退を繰り返し、いつしか衰退が成長を追い抜き、やがて終焉を迎える。けれどそれには個体差があり、例えば概念上では同じ1時間でも、もしかしたらその個体その個体が必要とする1時間は別なのかもしれない。
同じ色を赤と呼んでいるワケではないかもしれないし、様々で色々な趣味趣向がある。過去のオイラと現在のオイラだッて、そう。子供の頃にあんなに笑ッていた筈のテレビ番組が、ネットで改めて観てみると少しも笑えない。
その逆に。昔ならなんとも思わなかッた何かが、今だと強烈に心惹かれたり。昔は食べられなかッた苦手なモノが、今は何の問題もなく美味しく感じたり。それらは成長による積み重ねからくる変化というだけなのだろうか?
全て入れ替わッても壊れたモノは治らないし、壊れかけているモノも全て完治というワケにはいかない。確実に衰退しているし、たぶん劣化しているのだろう。
それこそが自分は自分で間違いないという証拠のように思えなくもないのだけれど、人間という塊で言うところの寿命という概念と、その塊を構成する細胞の寿命。あまりにも違い過ぎるように思うんですよね。そして、その細胞がわざわざ分裂したり入れ替わる理由も、そう。
言い換えるなら、
そうしなければならない理由。
まるで、自分が自分のままでいる事を拒否しているような。否定しているような。避けているような。他の誰かになろうとしているかのような。オイラがオイラである事を拒絶しているかのような細胞と、オイラがオイラである事に拘り続けようとする記憶。
細胞は、
数週間で全て入れ替わる。
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オイラは誰なのだろう?
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とか、なんとか。
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納得する答えに窮する難しい事を考えていると、眠たくなりますよね。←眠たくないけど眠らないと明日がヤバいッて時は、こういう屁理屈のような戯れ言をアレやコレやと考えるのが1番かもしれません。
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さて、と。
おやすみなさいませ、
です・・・・。
ぺこり♪