まちがいさがし | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

車の中でよく聞く曲が菅田将暉さんの「まちがいさがし」。

ミスチルやサザンも好きだけど、この曲も大好きだ。

 

まちがいさがしの間違いの方に
生まれてきたような気でいたけど
まちがいさがしの正解の方じゃ
きっと出会えなかったと思う

 

この歌を聞いていてしみじみ思うことは、現代の日本の教育は、あまりに「まちがい」を排除して、「正解」を全員で求めすぎだと思う。

 

先日、日本に住む中国の方と話をしていたら、

 

「中国でも同じです。みんな正解ばかりです」

 

とおしゃっていて、日本での子育ての中で、あまりに画一的で「正解」探しばかりする日本の学校にも絶望していた。

 

「中学生らしい」「高校生らしい」・・・

 

こんな「正解」も、なんとも嫌だし、

 

「当たり前だろ」

 

なんて決めつけられるのも、いつもじゃないけど、勉強や考えに関しては、なんだか押し付け感が強い。

 

だから中学生も高校生も、「正解」の同調圧力のなか、自分の意見を言うの苦手になり、いつも空気を読んで「正解」探しをする。

 



小論文指導をしていると、そうした「正解」にあたるのが「テンプレート」「マニュアル」であり、自分の個性や人間性を伝えるはずの志望理由書も、あきれるほど「テンプレート」が「正解」になる。

しかもその「正解」は「ネット」にあり、指導者も生徒も、その「正解」に「疑問」を持つこともなくなる。

だから想像も苦手になるし、「接続」も上手くできないし、「伝える」のも伝わらない。

 

今日、大学3年生の学生が、就職用にエントリーシートの指導を受けに来てくれた。

残念ながらそのエントリーシートはまさに「ネット」で調べた「正解」、つまりは「テンプレート」であり、私が知っているその学生の素晴らしき個性や人間性はなく、何の魅力もない単なる「履歴」だった。

 

「まちがいさがい」の「間違い」を、否定はもちろん恐れてはならない。

「間違い」だから前に進めることだってあるし、その「間違い」とは人それぞれきっと異なる。

 

私は、結構、「間違い」の道を進んできたような気がする。

49歳で教員を他にやりたいこともなく辞めるし、そもそも教員になったことも、勉強の努力をしていない私にとっては「間違い」かもしれない。

でもその「間違い」を楽しく歩んだ結果、出会えるはずもない人とも出会ったし、時には夢のような時間も過ごせたし、新しく「希望が有る」世界に進めた。

 

教員時代はずっと教員らしく「正解」探しをしていたけど、そもそも「正解」や「間違い」なんて学問の世界ですら可変的なものであり、昔は「正解」だった男尊女卑もいまは「間違い」だし、「正解」の「正義」を振りかざすのは分断や対立への道で不気味だし、「間違い」も尊重してきたからこそ人類は進化し、文学や音楽が生まれ、感動がある。

 

君の手が触れていた 指を重ね合わせ
間違いか正解かだなんてどうでもよかった
瞬く間に落っこちた 淡い靄の中で
君じゃなきゃいけないと ただ強く思うだけ

 

「間違い」か「正解」なんてどうでもよかったのである。

そんな「二項対立」に捉われるのは、視野を狭くし考える力を失わせ、なんでも「マニュアル」を探す人になってしまう。

 

私は、若い人にはそんな「正解」人間になって欲しくない。

それよりも、「間違い」であっても「正解」であっても、もっと「自分らしく」あることのほうが大切であり、生きているような気がする。