歴史を知ることは未来を知ること① ~田中正造~ | これでも元私立高校教員

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30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

「歴史を知ることは未来を知ること」


自分の座右の銘である。

しかし、それが実際にどういうことであるか、なかなか伝わらないと思う。

例えば過去の文献から、地震の記述を調べ、現在の防災に役立てることは、そのもっとも具体的な例であろう。



しかし、もう少し精神的な部分も、この文には込められている。

そこで学ぶことによって未来を示してれる歴史をいつくか書いてみたい。


高校のとき、父親の書斎の書籍の中で出会ったのが田中正造である。

受験でも重要な「足尾銅山鉱毒事件」で、天皇に直訴したことで有名である。


田中正造は1841年に生まれた。世はまだ江戸時代である。

明治時代に入り、日本は富国強兵・殖産興業の掛け声のもと、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争を経て、帝国主義への道をまい進していた。

田中正造は、1913年、第一次世界対戦が始まる直前に亡くなった。

その生涯の中で、1901年、足尾銅山の鉱毒被害で苦しむ人々のために、明治天皇に直訴したのである。



その彼が残した言葉がある。



真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし


現在の言葉ではない。

明治時代、富国強兵の時代の言葉である。


古来から、多くの日本人が自然と共生し、山や川を大切にし、なにより命の尊さを共通の認識として生活してきた。

それが明治時代、文明開花によって失われたと、彼は説くのである。


我々日本人は、昨年、未曽有の震災によって、多大なる被害を蒙った。

同時に、福島の原発は、多くのことを我々に教えてくれた。

だが、田中正造は、100年以上前に、この自然と文明のあり方の教訓を残していたのである。


田中正造を学ぶことは、過去の歴史を学だけではない。

それは未来のことを学ぶことでもある。


受験指導をしていると、田中正造は重要語句として登場する。

点数を取るだけなら、そのパターンを教えてればお終いである。


しかし、それが受験の補習中であっても、いや補習中であればこそ、自分はこの話を生徒にする。

時間はかかる。しかし話す。

衆議院議員として6回連続当選し、社会の中でもエリートであった地位を捨て、ひとりの農民として野に下り、貧困のなかで生涯を送り、なおかつ未来への啓示を残した、それが田中正造である。


もちろん、上記の言葉をご存知の方もあろう。

しかし、もしご存知でなければ100年以上前に、文明のあり方と示していた日本人がいたことを知るべきであろう。

そして、政治家たるものは、かくあるべきであるという心得として、現在の政治家の皆さんに学んでほしい。



なお、この文を書いたのは、「原発ゼロ」などといった現在の政治的問題の是非を示すためではない。

文明という言葉を定義する際の、思想についてであることを付け加えさせていただく。

「原発ゼロ」の問題が、決して容易で単純なものではないことはいうまでもない。


自分には、同様に多くのことを教えてくれる歴史の友人が何人もいる。

次回は、中江兆民について書いてみたい。