リブログ記事”作られた人工的な”好き””
そうそう、TVとかネットとかで見掛ける、素敵そうな感じ、「みんながいう良い」を想像してさ、自分の周りを見渡して、散らかってる、ダメだ、着てる服も髪型も、生き方も…「みんなが素敵と思うものとかけ離れているだろう」みたいな常にダメ出しする感覚、無意識にやってる。みんなってなんだ。こうあるべき、生きるべき状態があるの?その形は一つなの?たくさんの人に支持されるような人、人気の芸能人とかの様子を見習って目指せばいいの?それ以外は間違いで、劣っているの?ちゃうやんビル街で暮らそうが、自然の中で洞穴に住んでも、ずっと旅をしようが、なんでもいいし、なにを好きと感じようが自由だって忘れてる。誰かに非難されたらやめなければ。だから非難されそうな事はあらかじめやめておこう、って感覚で自分を見張ってる。私自身、「私の今までの人生の体験を他人に話したら恥ずかしいかな」って考えた事があった。恥ずかしいというか、ダメなやつというか、嫌われるというか、なにか嫌な風に見られるんじゃないか、って。気にしてたのはだいたい、小学生の頃からのパニック障害などで不登校して引きこもり気味だったこと、その事が「たくさんの人と違う、元気で通学しない人はダメってことかも」って思いで苦しんできたか事から。周囲に味方は居なくて、家族からも「学校に行かないのはおかしい」と長年責められ続けて、外に堂々と出られない気持ちでいた。でもそれも違った。責める考えを持ってる人がたまたま周りに大勢いただけ。沢山の声を聞いていて、自分の本当の声が埋もれただけ。数が多い=正しさの証明にはならない。物影から石を投げるように匿名で他人を貶す人はだいたい「みんな言ってますよ」って「自分がそう思う」とは言わないなあと感じる。数が集まれば、身を隠せるし、反撃も責任も自分が負わなくていいような気がするのかな。とにかくずっと「世間に笑われる」「人に話すな」「お前がおかしい」って家族からの繰り返し言われる言葉と、無理矢理腕をつかんで従わせようとする態度に怯えていた。「子供の話なんて聞くものじゃない」と、コミュニケーションもなく基本不信なのに信頼したくて近づいては母や姉などにサンドバッグにされる感じかな。きまぐれに罪悪感から「よしよし」されても心底ホッとした事がなかった。書きはじめたら辛かった悲しかったって気持ちでこっちの方角にきちゃったけど、書いてて「そうだったんかー!」って気持ちが整理ついてびっくりした。ただ辛い、で終わるんじゃなく、その周りから俯瞰してる。「うん、だから、他人の言うことを真実だと思い込んで苦しかったけどもうエエんじゃぁああみんなうそデタラメだったんじゃぁあああ」の地点にいる。前は…狭かったなああ。周りの年長者が正しいとか…おそろしい。そりゃ恐い世界創ったよね自分。まともな会話のない家族の中で、5、6歳で父に無言で連れてかれた映画が原爆投下の内容だったからね。祖母は毎日「死に苦しみ」や体のもろさを語り、母は「苦のシャバだ、金がねえ、好きな事やってらんねえ、世間に笑われる」が口癖。父は基本自分を持ってないので母のいいなり&人のせい&毎日酒と麻雀で朝帰り、義務でお店の仕事はしてるけど常に不機嫌。姉はずっと「あなたはかわいそう、おかしい、いやらしい」とあらゆる事でからかってくる。学校の先生は幼稚園・小学校と歴代ヒステリーでエゴ全開でいじめてくるという。これは私が悲観的に捉えたからそう見えるというより、なんか…わざわざその舞台選んできたのじゃろうか?マゾすぎる…!!って思うものの、HAPPYさんの体験からのお話から、自分が自分らしくなるために、周りがいじわる役とか演じてくれてるんだよ、って。魂レベルでめっさ愛と応援くれてるから、早く気付けば周りもその態度をとらなくてすむって。させてるの?もうクリアしたいな。つまりとっとと自分が自分らしく生きろよーってことだ。言いたいこと遠慮しないでやる。やりたいことやる。私を表現する。私を生きる。「周りは責める声ばかり」って言ってたけど、それも「私が私を責めるから聞こえる」って事でもあるらしいし。私の内側の投影が見えるのが世界、かあ。