先日、約半年ぶりに実家に帰った。
かつて5人で住んだ家に今は母が一人で住んでいる。

東京育ちの友人が「田舎のある人がうらやましい」と漏らしたことがあったが、
帰る場所があるというのは恵まれている、といつも思う。
帰る場所があっても帰れない人々もいる。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

これが室生犀星の詩集「小景異情」からの引用と知ったのはつい最近のこと。
国文学を専攻してたくせに無知な吾輩。

彼はこの詩を都会ではなく、故郷の地で詠んだという。
それは、この後に続く句から明らかだ。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたうもの 
  よしやうらぶれて異土の乞食となるとも 
  帰るところにあるまじや 
  ひとり都のゆふぐれに 
 ふるさとおもひ涙ぐむ 
  そのこころもて 
 遠きみやこにかへらばや 
  遠きみやこにかへらばや

この詩の主旨とは異なるけれど、
大切な存在なのに、遠く離れて時々思いを寄せるほうがいいという心理は
大切なものだからこそ、そこに変わらずにずっといてほしい、
自分は変わってしまっても、帰れば昔と変わらずに迎え入れてくれる包容力、
帰還する場所、そうした定位置を求めてしまうからだろうか。

人間の心理は本当にわがままで、「そこにないもの」をいつも求めて
都合よくノスタルジーにひたったりする。
そばにあるとありがたみがわからず、離れて大切さに気づく。
やっと欲しかったものを手に入れたのに、なぜか虚しくなる。
そうした対比の中で価値観を生み出していくのかもしれない。

辛い思い出があっても、ボロ家でも、やっぱりうちはいい、と思えること。
そしてそれがそこにあり、迎えてくれる人がいるということ。
それはごくあたりまえのようでいてとても幸せなことなのだ。

そこにいつもあった故郷。
でも、いずれは親もいなくなり、
昔確かにそこにあったものは形を変えて、なくなっていく。
自分が親となるべき年齢になり、娘としてではなく、
一人の人間としての親の想いをとらえようとしたりもする。

リリー・フランキーの「東京タワー」が売れて映画やドラマにもなっているが、
せちがらい世の中で「望郷」は時代のニーズかもしれないな、などと思う。

年に1回里帰りしているとすれば、一生のうちで故郷を訪れるのは
意外に少ない。 
毎日せわしく過ぎていくけれど、私は原点であるその場所を
やはり大切にしたいと思う。

CCつれづれ日記

オクラの花。 オクラがこのように上を向いて育つとは
畑の収穫を体験して初めて知った。
とうがらしも同じように実をつける。