オズワルド伊藤は、東京ダイナマイトのはちみつじろうと、おぎやはぎのやはぎのDNAを受け継ぎ、漫才のかけあいをする自分と、第三者のようにコメントする心の声の自分の分離と融合を、オンオフさせながら、瞬殺のツッコミと、間の加減を自由自在に、作り出していくことで、リズミカルでシニカルなツッコミ芸をものにしていた。

その芸風は、いつでも都合よく「自分」を使い分けながらも、心が疲弊し続ける都会人の孤独感をにじませるような世界観を描き出すことができていた。

「かけあい」という意味での漫才は、本当は、20年ぐらい前には終わっている。私たちは、伝統的な漫才のような、舞台の二人のかけあいの言葉のずれが作り出す、おもしろおかしい世界を盗み見ている、というよりも、相手の狂気(ボケ)に対して、ツッコミが自分を2つに分割して、母親のように受け止め、狂気を抱えながらも、受け流し、お互いの孤独に断絶線を引いていく、そして、観客は、その引かれた線のこちら側をツッコミと共有されることで、狂気が日常性を取り戻し、「笑える異和」に変換され、安心する、それこそが、現在の「漫才体験」なのだとわかっている。いわば、現在の漫才の舞台を根底で、支えているのは、自分を分割することで心を守る、現代人の孤独の構造なのだ。それを理解できないのは、昔ながらの単純な「かけあい」から頭も感性も抜け出せない、大御所芸人だけなのではないか。

 

伊藤は、2020年のMー1で、オール阪神から、「最初からもっと声を張るように」助言され、優勝したさに、それに縛られるがままに、自分の持ち味の「分割線」を薄めてしまった、そんな漫才にしか、この1年で行きつけなかった。

実は1年前のMー1の時点で、すでに伊藤は、自分のよさを全く見失っているような、「うるさい」漫才を披露してしまっていた。その危機感をダウンタウン松本は気づいて、「オズワルドらしくない」と適切な助言をしていたのに、その指摘は、オール阪神の粗雑な正反対の助言で、見事に中和されてしまった。

 

今回優勝した錦鯉の渡辺も、オズワルド伊藤と同じDNAを持ち、現代の漫才の生命線である、「自己の分割」をよく理解して、はちみつじろうを彷彿とさせる、クールで孤独なツッコミ芸を磨いてきていた。おそらく、あまり大御所の世迷言的老害に邪魔されなかったのかもしれない。

むしろ、渡辺は、逆に、先輩芸人から、一目置かれ、助言を乞われる存在になっている。ばいきんぐの小峠の教習所ネタも、渡辺のアドバイスを受け入れて、成功したものだという。

 

お笑いに限って言えば、先輩に助言をもらてはだめだ、後輩にこそ助言を求めるべきなのかもしれない。

それが、あらゆる芸術でも、最も鮮度が要求されるお笑いの鉄則なのかもしれない。