イエスの系図って、2か所に書いてあるんですよねえ。

 

まずはマタイ1章

 

そしてルカ3章

 

どちらもイエスの父はヨセフという事なので、「ヨセフって名前はどんな意味だっけ?」と思って調べてみましたあ。ヘブライ人の名前には意味があって、親の思いが込められていますからねえ。

 

こちらで調べてみましたよお。→ヨセフ

 

(Joseph)[「ヤハが加えて(増し加えて)くださるように; ヤハは加えて(増し加えて)くださった」を意味するヨシフヤの短縮形]

 

なるほどなるほどお、一番詳しく書いてあるラケルとヤコブの息子ヨセフがどんな経緯でその名をつけられたのか分かりました。イエスの父親ヨセフの親もそんな気持ちだったのかなあなんて想像できますねえ。

 

それでね、子供は生まれてからずっとその名前で呼ばれるわけですよ、親の思いが込められた名前でね。絶対波動受けますよねえ、良くも悪くもだけど。

 

それで、イエスの系図の中にはいろんな名前が出てくるわけなんだけど、それぞれに込められた意味があるわけですよお。めんどくさいから自分で調べてね。

 

しかも、ダビデに至る系図なんで歴代の王様の名前がズラリ!という事は、どんな生き方したかの記録が残ってんですよお。結構名前通りの生き方でね、面白いですよお。

 

そして、マタイのほうの系図には女性が登場するんですよねえ、タマル、ラハブ、ルツ、マリア、そしてウリヤの妻。

 

いずれもどんな人だったかがわかる記述があるので、イエス誕生の時までに培っておくべき波動を備えた人たちなんだろうなあ、と思っちゃいますねえ。

 

そんな波動を受け継ぎ、神の波動である聖霊によって妊娠したマリアの胎児につけられたのは、

 

21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

 

またまた調べました→イエス

 

(Jesus)[ギリシャ語イエースースのラテン語形。イエースースはヘブライ語エーシューアまたはエホーシューアに相当し,「エホバは救い」を意味する]

 

そして→インマヌエル

 

(Immanuel)[わたしたちと共に神がおられる]

 

こんな名前の波動に合って、神がともにいて救いの手が延ばされるような生き方をしたんだなあ、と思うわけですよ。培った波動を思い通りに自由自在にバランスよく発揮できるようにですよねえ。

 

自分の名前の意味を全うしましたよねえ、イエスすごい!

 

じゃあ、自分の名前の言霊は?って気になりません?

 

気になる人は自分で調べてね、案外その通りに生きてるかもですよお。

 

自分の場合は、まあうまく回ってるし、これでいっかあ、って感じですねえ。

でもそのうち調べてみようかなあ。

イエスって、量子力学の神髄を理解していたと思うんですよねえ。

 

全ては波動である。

愛も光も命も波動である。

波動を伝わらなくするのが闇である。

 

神は愛であり光であり命である。

ゆえに神は波動の源である。

神の波動を愛し、その波動に共振するものは神と繋がるのである。

神と共振するものは神の波動の下で永遠に共振し続けるのである。

 

神との共振をかたくなに拒むのであれば次第に減衰し死に至るのである。

人間の考えの波動は神の波動とずれているため、時として打ち消してしまうのである。

 

神の波動からずれてしまうのが罪なのである。

ずれた波動を他の人に伝えてしまうのはさらに大きな罪である。

まずは自分の波動を神の波動と共振させなさい。

そうすれば自ずと神の波動はあなたを通して他の人に伝わっていきます。

 

わたしは神と共振する人生を全うしました。

まずは私との共振から始めなさい。

そうすれば私を通して神の波動に共振することが出来ます。

 

ってなことをね、わかありやすく教えていったんだと思うんですよねえ、たとえ話なんかで。

 

しかもね、弟子たちを伝道に遣わすとき二人組にしたじゃないですかあ。

あれはね、二人の間に共振する波動を伝えさせるためだと思うんですよねえ。

一人で発する波動にはかなりのスキルが要求されると思うんですが、二人の間で共振する波動は強力ですからねえ。


当時のユダヤ人男子は、イエスの弟子たちでさえ「俺が一番弟子だ!俺のが立場が上だ!」なんて争っちゃうほどの自己顕示欲バリバリなので、そんなユダヤ人男子二人が和気あいあいとした関係で姿を現すなら、「何だこの光景は、見たことないぞこんな光景、でもなんかいいなあ、俺も仲間に入れてくれないかなあ、新しいぞこれは、ニュースだぞ!」なあんてね。

 

こうしてよい便り(グッドニュース)が伝わっていくのでしたあ。ってね。

 

だからね、イエスが遣わすときの気持ちは「さあ行って、あなた方がとっても仲良しなんだあって姿をみんなに見せちゃいな!」ってことだったんだろうと思うんですよねえ。その波動で回りも共振させちゃいなってね。

 

でもね、当時の人に波動だ量子力学だってチンプンカンプンなので、理解できる範囲での表現にならざるを得なかったでしょうけどね。

 

でも、量子力学にあてはめるとイエスの教えってズバリそのものだよなあって思うんですよねえ。

 

またおいおい書きますねえ。

 

イエスって、あのイエスですよねえ、イエスキリスト。

 

とりあえず福音書に書いてある「人間として地上で活動した」イエスのことを言っているので、神格化した見方はせず、「人間イエス」をわたしは「最高にカッコイイ!!」とおもってるんですよね。

 

その根拠となっているのはヨハネ8章1~11節なんですよねえ。こちらで読めますよ

 

さあ、ここから妄想の始まりです。

 

いまいましいイエスを陥れるために集まった書士やパリサイ人たち

「いい考えがあるぞ!姦淫を犯した女を連れて行って、律法では石打なんだがあなたはどう思うか?と聞くんだ。まさか石打にせよとは言わないだろう。あれだけ律法を無視してるんだから。しかしこれは重大な律法だ。無視したらつるし上げることが出来る。だがもし石打にせよ、というのであれば、なあんだあなたの愛とはそんなものか、と言えるじゃあないか。」

「それは良い考えだ。しかし姦淫を犯した女とはどこにいるのだ?」

「そんなのはそのへんのならず者に金を与えて夫持ちの娼婦を買わせればよいではないか。それで踏み込んで女だけ捕まえるのだ。」

「なるほど、姦淫は事実だし言い逃れはできないな。よし、それでいこう。」

 

で、計画通り女だけ捕まえてイエスのもとに連れて行きましたとさ。

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか?」

 

…イエス、地面をモジモジ。

 

「姦淫の罪は石打だと律法にあるんですよね?あなたはどう思います?」

 

イエス、すっくと立ちあがり

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

 

ここで最年長者の心の声

「おっと、そう来たか。ここで一番に石を投げてしまっては自分には罪がないと宣言したことになる。そうではないことをみなに知られておるのにそれはできんな。かと言って投げなければ罪があると宣言しているようなものだ。ここは後のものに任せてしまおう。」と退場。

 

さらに次の年長者の心の声

「ええー、あの人出てっちゃったよ、ずるいなあ。いっつもあれだよ、責任取らないんだからあ。まあいいや、その辺は見習っちゃお。後で報告聞けばいいや。」と退場。

 

さらにさらに同様に出ていき、最後のものの心の声

「あーらら、みんな行っちゃったよ、やっぱ口ばっかの奴らだなあ。最初っからうまくいくとは思ってなかったんだよなあ。この人にかなうわけないじゃん。まあ、俺もこのまま出てっても誰にも文句言われないよな。しーらんしょ。」と退場。

 

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

ーーー妄想終わりーーー

 

そう、イエスは罪が事実であることは百も承知で相手に考えさせたんですよねえ。

 

律法は人が他の人を裁くためにあるのではない。

神の道から外れているのを自分で気づいて、自分の歩みを修正するためにあるのだという事を思い出しなさい。

他の人を裁く暇があったら、自分の生き方考え方をまず、神の道に合わせなさい。

 

こんなことを言葉にしたって、あいつらには通じませんしね。

いやあ、イエスってすごい!カッコいい!こんな人に私はなりたい!

って思うわけですよ。

 

中々道のりは長ーいですが。

 

こつこつと行きたいと思いまあす。