宮城県の閖上(ゆりあげ)地区の佐藤研さんは妻真希さん、次女果穂ちゃん(6)と車で近くの市立閖上中学に逃げる途中だった。
 
閖上地区には、高台と言えるような場所がない
自宅にいた佐藤さんは地震の直後、果穂ちゃんと真希さんを車に乗せ、地区指定の避難所・閖上公民館に向かった。
 
 途中、閖上地区を流れる運河が目に入った。
普段は1メートル超の水量があるのに、川底があらわになっている。
 
大きな津波が来る
 
そう直感した。
 公民館に着き、長女吏都(りつ)ちゃん(8)を迎えに行こうと、佐藤さん一人閖上小学校へ急いだ。
しかし、そこに吏都ちゃんはいなかった。
 
 
 地震発生時、閖上小学校では全学年が授業を終え、下校が始まっていた。
吏都ちゃんは学校から300メートル離れた歩道橋にいた
 強烈な揺れに座り込んでいると、
小学校から走ってきた5年生の男子児童
家に帰っちゃダメ。中学校に避難しよう
と声をかけてくれた。
 
歩道橋にいた数十人の児童はその声に従い目の前の市立閖上中学に移動し始めた。
 
 教務主任教諭の洞口日出輝さんによると、海抜0メートルの閖上小学校では毎年1回、地震と津波の訓練をし、
校内にいるときは3階に、校外にいるときは閖上中学などの高い建物に避難せよと子どもたちに徹底していた。
 
 親が子供を迎えに行き、親子で津波に巻き込まれるケースが多い。
災害の際にいち早く親に子供を帰すという「引き渡しルール」が裏目に出た形だ。
 
 閖上小では、迎えに来た親にも子供を渡さなかった
 
防災マニュアルで「津波が懸念される時には子供を引き渡さない」と決めていたからだ。
「なぜ子供を渡さない」と詰め寄る親もいたが、学校側は「親御さんも学校にとどまってください」と説得した。
 
 同校の298人の児童は全員無事だった。
 
  また公民館では「女川町に6~7メートルの津波が来ている」との情報が伝わった。
誰ともなく「この2階建ての公民館は危ない」と言い出し、3階建ての閖上中を目指して移動し始めた。
距離はわずか500メートル。真希さんも車に乗った。
公民館を出たところで、閖上小から戻ってきた佐藤さんと合流、中学を目指した。
 
閖上地区の住民は年1回、避難訓練を行い、地震と津波に備えていた。
しかし、閖上中に向かう途中で多くの車が津波にのまれてしまった。
 
 佐藤さんの車も濁流に流されたが、たまたま閖上駐在所にひっかかり、家族3人は屋根に上ることができた。
 暗くなり、雪が降り始めた。屋根から下りられたのは深夜になってからだった。
 
3人は閖上中学へ向かった。
 
 午前0時の時報が鳴り、ラジオが震災被害の様子を刻々と伝えている。
 
閖上中学の教室にいた吏都ちゃんは女性教諭に呼ばれ、
2階の職員室へ行った。そこに、お父さんとお母さん、それに妹。
吏都ちゃんは真希さんに飛びついた。
 あまりに長い一日だった。佐藤さんには、家族みんながこうして無事に会えたことが奇跡に思えた。
 
 
 
 
低学年を高学年が誘導する。
毎年訓練をしてるためでしょうが、とても珍しい。
 
また「ここじゃ危ない」と判断を下せるくらい、住民の方々も訓練されてた。
 
 
学校の判断も立派ですね。日頃から会議などで細かく対策を練り、
また子供たちにも厳しく指導していたのでしょう。
 
勇敢な小学5年生をはじめ、聡明な閖上地区の方々、素晴らしいです。
 
とともに、亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。