イベントバナー


4/26 10時~24hSALE■【1点2,990円!2点購入&クーポン利用で】


フリルラッシュガードセット


【1枚680円!クーポン&3枚購入で】

【1枚680円!クーポン&3枚購入で】 楽天1位 ブラ紐隠しインナータンク ブラ紐隠し インナー タンク 選べる2タイプ 重ね着 タンクトップ キャミソール ブラック ホワイト 黒 白 シンプル 定番 レディース トップス [メール便送料無料][s2][予約販売]

ブラ紐隠しインナータンク


2015年生まれ(小3)で中度知的障害(IQ37→2023.3月診断)を伴う自閉スペクトラム症の娘・ひまり(仮名)支援学級(情緒学級)在籍の日常、学習、療育の様子。あとは母の愚痴など色々書いています。

基本的に毎日複数更新しますので、興味を持ってくださった方は何個か読んでいただけたら嬉しいです
ニコニコ

サブブログも運営しています





こんにちはウインク



美容院が終わりお昼ご飯はパスタを食べてきましたキラキラ

おいしかったラブ







この記事私が取り上げるのを楽しみにしていた人はいただろうか?


私はもちろん「いいね!神奈川引っ越すかおねがい」と思った派。


    

この知事室には「ともいきアート」という、障害者によるアート作品を飾っています。作品をリースしていて、3カ月ごとに作品が変わるのですが、どの作品も天才的なものばかり。見ているとね、障害っていうものの意味がわからなくなってきますよ。つまり、障害者とそうではない人の区別というものはどこにあるんだろうという気持ちになってくる。

Forbesより


私も色々な経験を通じて「障害者とは?」を感じることが増えました。例えば療育園に通っていましたが私の目にはみんな「普通の子」に見えたんですよね。



なんで違う学校に通う必要があるのかな?と思いました。



もちろん環境、設備的に整っていたり専門知識を有する先生がたくさんいらっしゃったり支援学校に通う理由はわからなくはないというか、それを選ぶ親御さんは多いと思う。



だけどそれが学校の場所まで分ける必要があるのか?今の私にはわからないです。


    
日本の教育は均質な人を作ることに専念してきたわけです。それはこの国の高度成長の要請だった面もあるでしょう。

しかし、均質的な普通を目指すことが標準、という考え方は、非常に危ういと私は思います。なぜなら、そこに普通と、普通ではない、の分断があるからです。その延長線上に、悲惨な津久井やまゆり園事件があったのかもしれない。

「普通の人」ばかりを作っていることにどんな意義があるのでしょうか。そして「普通って何?」ってことですよ。



そうそう。「普通」ってなんなんでしょうね。



私も自分は変わっているとは思いますが一応普通の枠には入っていたはず。



普通、普通じゃないを分ける一番の基準が学力だと思うのですが



学力で言えば前から書いてますが私は高い方でした。



だからきっと普通の枠から外れることはなかったでしょう。



だけど普通の枠が「東京大学に行ける人」に限られるとするなら私は枠から外れていたはず。



なんか虚しいというか…



確かに人間の能力に平均のようなものがあるとしてそれを基準に教育していくのが効率的だとは思うけど



普通についていけない子を追いやって「普通の人間」を作り出すことに意味があるのかな?



そんな風に感じる。



    

そして「ニューロダイバーシティの学校」を計画されているとのことですが、特に小さいころからさまざまな個性をもつ人と触れ合いながら大きくなっていくのは、インクルーシブ社会の土台にもなるでしょう。まさに「ともにいきる」社会の基礎になる。

いわば、障害あるなし関係なく、ごちゃまぜが当たり前になっていくことが、教育から広がっていけばいいと思います。



ここがこの記事のコアとなる部分だと思うけど



保育園や幼稚園の間は障害がある子も普通に登園できるケースも増えていますよね。



それが小学校、中学校でも当たり前になって行けばいいなと私は思います。



義務教育なんだから。



学力で学校を分けるのは高校からで十分。



さすがに知的障害が重い子に定型発達の子と同じ勉強をさせるのは本人は辛いだろうし、本人のためにもならないだろうからクラスを分けたり、取り出し授業をしたりは賛成です。



ですが



ごちゃまぜが当たり前になっいく社会



私は賛成ですねウインク



    

本音を言うと、私は特別支援学校をやめていきたいんです。もちろん「うちの子は特別支援に入れたい」という親御さんの声もたくさんあります。その事情もさまざまでしょう。


しかし、それはあくまで親御さんの「目線」であって、当事者である子どもの「目線」ではないんです。その子はみんなと遊びたいかもしれないし、もしかすると、混ざったほうが自分の個性を発揮できるかもしれない。親御さんだけの目線で「分ける」ことをしてもいいのかどうか、と私は考えているんです。



これは既視感がありました笑



知事としては「支援学校に入れるのは親のエゴ」と暗に言っていますよね。



私もよく言われるんです「親のエゴ」笑



お互いに正しいと思うことがあり、反対の意見を持つ人を排除しようとしがちですが



それぞれに事情があって選択をしていることはお互いに尊重し、認めていかなければならないと思う。


    

──インクルーシブ社会の実現と一言で言っても、現実には個別具体的な様々な利害関係や事情が複雑に関係してきます。政治とは、こうした複雑な具体に対してのアプローチの方法だと思いますが、「当事者目線の障害福祉」のために、政治ができることは何なのでしょうか。

「ごちゃまぜを当たり前と思える社会」が作られていくプロセスを見せること。それが、障害福祉のために政治ができることではないでしょうか。

(中略)

県のホール施設で、映画鑑賞会を開催しました。看護学校の学生が、ボランティアで医療的ケア児とその家族に付いてくれ、人工呼吸器を付けたままの子も、ストレッチャーに横たわったままの子も、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」の映画を楽しんでくれました。


そこには一般の映画館の方にもお越しいただき、今度は本当に映画館での「ともいきシネマ」が実現するよう、いわば「仕掛けた」ところです。



政治ができることを実際に形にしているところがすごいな、と感じます。



この国では文部科学省がインクルーシブ教育を推進していく、としながら長年大きな進展が見られない状態なので…。国連からダメ出しをくらいましたからね。


    

2022年8月、「障害者権利条約」について、国連・障害者権利委員会による日本政府への取り組み審査が実施されました。

その結果、教育の分野では、障害のある子どもたちが、とくにその程度が重い場合に特別支援学校への入学を要請され、地域の学校に受け入れてもらえない状況、障害のある児童生徒に対する合理的配慮が不十分であること、インクルーシブ教育における教員のスキル不足など、さまざまな問題を指摘されました。


東洋経済educationより


ただ、最近ではこうした取り組みもあるようで、意外と気づいたら「インクルーシブ教育」が普通になっているかもしれませんね。



一つの学校に特別支援学校の校舎、普通学校の校舎があり特別支援学校の先生と普通学校の先生がそれぞれ協力しながら学校運営をしていく。



もちろん大きな行事は一緒に行なっていく。



現段階の私の理想的な学校はこのような形かもしれない。


イベントバナー