そのお店は、学生時代からのお気に入りで。
仕事の帰りにも時折顔を出しては、見えないものを見る力があるんだ、と口癖のように言うマスターをひやかすのがちょっとしたストレス解消で。
その日も、先輩に指示されていたことを後回しにしたことでひどく嫌味を言われて。
足がそこに向いた。
店の中に入ると、新しいバイトの子が黙々とグラスを磨いていて。
チラリと俺を見やると、小さく何かをつぶやいて、コトリとグラスを置き、それからお水とおしぼりを乗せたトレイとメニューを抱えて近づいてくる。
カウンターの、マスターの前に腰を下ろすと。
「おう、ヨウスケ。久しぶりだな。そろそろ来ると思ってたんだ。・・・うちの新しいバイトの子。ナギちゃんね」
グラスとおしぼりをテーブルに置いて。
じぃっと無言で、差し出したメニューを受け取ってもらえるのを待つ。
接客業にありながら笑わない店員。
いくら変わり者のマスターでも、それはいささか変わり者過ぎるんじゃないかと。
びっくりしてマスターの顔を見る。
「おまえの後輩。学部は違うけど同じ大学だって」
ぺこりと頭を下げてカウンターの隅に戻ると、また黙々とグラスを磨き始める。
メニューなら見なくても判っているから。
開かずに、コーヒーを頼む。
「ナギちゃん、かわいいだろ?おまえ、ドストライクだろ?」
ニヤニヤしながら、身を乗り出して囁く。
「おっさん。そういうのセクハラになるんだぜ?・・・つか、なんであんな笑わない子雇ったの?」
小声で言葉を返すと。
まるで信じられないものでも見た!というように大げさに顔をしかめて。
更にカウンター越しに身を乗り出してくる。
「・・・お前の目は節穴か?人にはそれぞれ個性というものがあるんだ。俺には見える!俺には判る!おまえは、ナギちゃんと、恋に堕ちるぞ。とことんな。ちゅーか、ナギちゃんを雇った俺に感謝するだろうなっ」
いや、そんな自信満々に言われても・・・。
チラッとだけ視線を移すと。
長いストレートの髪を後ろでひとつにまとめて。
黙々とグラスを磨き続ける。
もとからそうにぎわっているような店でもないから、バイトの子を雇う必要自体あまりない店なのに。
時々、ここにはバイトが入る。
確かに、今までいた子達もどこかちょっと風変わりなところはあったけど。
笑わない子は初めてだった。
**********
その日は朝から先輩と挨拶回りで。
夕方までみっちり一緒に歩き回ったけれど。
「たまにはこのまま直帰ってのもいいだろ?」
そう言って、彼女に連絡をし始める。
「仕事を頑張るのは当たり前。建築デザインったって、依頼してくれるお客様がいないとデザインだってできないんだから。ただ、机の上で線を引いてりゃいいって話じゃないんだ」
きついことばかり言うから、実は苦手だった。
でも違った。
この人は、ちゃんと俺に、仕事を教えてくれようとしていたんだ。
「おまえ、彼女とかいねーの?」
携帯の着信に画面を見ながら聞いてくる。
「今はいないです」
「そか。んじゃ、オレ行くわ。おつかれ。また明日からしごくからな」
ふっと笑って。
そんな風に、笑うんだ。
「おつかれさまです」
頭を下げて。
いつもより早足な先輩の背中を見送った。
雑踏に身を置くと、人の多さを改めて思う。
この人達それぞれ。
目的があって、理由があって。
歩いてすれ違っていくんだな。
ふと。
人ごみの中にナギちゃんを見つけた。
うつむいたままこちらに歩いてくる。
まるで別世界を彷徨うようにひとりぼっちで。
ここにあるものを、何ひとつ映そうとしないで。
それなのに、器用に人の間をぬって歩いてくる。
知らん顔で、そのまま通り過ぎてしまえばそれまで。
コーヒーを飲みに行くお店の、バイトの子だ。
まともに話すらしたこともないから。
声。
ちゃんと聞いたこと、あったっけ?なんてとても失礼なことを思ったくらいで。
なのに。
気がついたら、声をかけていた。
細い腕をつかんで。
そうしないと、どっかいっちゃいそうだった。
ギクリとして顔をあげる。
知らない人に声をかけられた時のように警戒心丸出しの瞳で、俺を見上げる。
「あ・・・ごめん、ね?」
思わず、つかんでいた手をひっこめた。
ナギちゃんが、まるで泣いているような顔をしていたから。
「・・・・・・こんにちは・・・」
小さな声が返ってくる。
胸元のペンダントトップをきゅっと握りしめながら。
それは、白や緑のマーブル模様が入っている紫色の石で。
バイト先でも、いつもいつも彼女が身に着けていたもの。
時々、そうやってきゅっと握りしめていたのも、知っている。
不安そうにつぶやく細い声を。
こんな声してたんだって、妙に感動している自分がいて。
「時間あるなら、お茶でもどう?」
なんて陳腐だ。
もっとマシな言葉は思いつかなかったのかよ、俺。
己にツッコミいれまくりでナギちゃんを見下ろすと。
小さく小さく、ハイとつぶやいて。
コクンと頭をさげた。
どうしても。
そのまま帰すのが、怖かったんだ。
それくらい、壊れそうな表情をしていたんだ。
~~~続く。~~~