今朝の朝勤では信心について
昔ばなしを例えにお話がありました。
昔ばなしによく登場するのは
「正直者のお爺さん・お婆さん」と
「お隣のいじわる爺さん・婆さん」。
正直者で優しいお爺さん(お婆さん)が
ある日、困っている動物を助けたところ
お屋敷に招かれてご馳走でもてなされ、
「お土産に大きな葛籠(つづら)と
小さなつづら、どちらにしますか?」
と聞かれました。
優しいお爺さんは小さなつづらを選び
帰ってから渡されたお土産を開けると
なんとなんと、
そこには立派な宝物がたくさん
それを聞きつけたお隣の
がめつくていじわるな爺さんは…
(もうご存知ですね)
このようなお話が幾つかあります。
「もしもいじわる爺さんが
小さな方を持って帰っていたら
どうなったんだろう?
って子どもの頃は考えましたけどね、
…どっちでも同じだったでしょうね」
と、和尚様。
そうかぁ、なるほどなぁ。
「あれが欲しい、もっと欲しい」
「ご利益がいっぱいあればいい」
「○○さまに頼めば大丈夫」等々、
信心において結果を期待したり、
知らず知らずのうちに
いじわる爺さん(婆さん)に
なってはいませんか?
うっかりすると方向を誤るので
改めて注意しなくてはです。
信仰心は本来、
自分が神様仏様に何ができるか?
世の中にどう役に立つのか?
(結果、思いがけずギフトを受け取る)
何かを得ようとするのではなくて
自分は何を与えられるのか???
(結果、思いがけずギフトを受け取る)
…の方向であると、私は感じました。
喜びを自分なりに世の中に表現すると
(愛、とも言い換えられるかも)
それが循環して、
大きくなって自分に還ってくる。
そんな仕組みを感じています。