第百二十六代の天皇陛下が即位されました 合格

 

象徴天皇として、国民に寄り添うお気持ちの天皇陛下。

 

これからお忙しくなる公務、一方で皇后さまと仲睦まじいお姿を拝見

出来ることを楽しみにしています 音譜


☆ 5月3日(金)日本経済新聞(朝刊)『令和の天皇と皇后』 ☆

 


 


ここに書かれている中で、目に留まったのは・・・〇内の記事


 

「2017年10月京都市醍醐寺に天皇陛下の姿があった。

陛下は後奈良天皇(在位1526~57年)が書いた般若心経の奥書を

じっと眺め、静かに読み上げられた。

『朕(ちん)、民の父母として、徳は覆すこと能(あた)わず。甚だ自ら痛む・・・』

国が荒廃した戦国時代、民衆はまん延する疫病に苦しんだ。

朝廷も窮乏していたが、後奈良天皇は『民の父母として徳を行き渡らせる

ことができない』と心を痛め、写経を続けた。

その心情に思いを巡らせられたのか視察時間は予定を一時間以上オーバー

していた(以下省略)」

 


この記事で思い出したのは、『神々に告ぐ』(安部龍太郎)。

また、さらにその事実を確かめるべく『歴代天皇事典』(高森明勅 監修)

で当時の天皇の時代をチェックしました・・・。


☆ 大きく関係していたのが、「応仁の乱」(1466~1477年) ☆

 


 


『神々に告ぐ』(安部龍太郎)は応仁の乱(1467~1477年)以降の室町

幕府、朝廷の姿を描いた歴史小説です。

室町幕府は力を失い世は乱れ、神々に礼を尽くしてきた京都朝廷も衰微

を極めた。

やがて、窮地を救ったのが織田信長だった・・・。

 
 

   



その事実を確かめるべく、『歴代天皇事典』(高森明勅 監修)で確認 音譜


☆ 初代神武天皇から第125代今上天皇まで解説されています ☆


 

 


 


すると、分かったことは・・・


第百三代 後土御門天皇




難を避けて、将軍・足利義政の室町邸を仮宮として10年近くも過ごし、

その後も北小路邸、日野政資邸などを転々とし、1479年にやっと修理

が終わった土御門内裏に帰ることができた。

 

11年にわたる争乱の間に、皇室の御料地や公家の所領の多くが失われ

て、朝廷の経済は逼迫し、節会その他の恒例行事も廃止されるものが多

くなった。


第百四代 後柏原天皇




経費節減のため、朝廷の儀式のいくつかは中止され、結局、即位礼が

行われたのは践作(せんさ:皇位を継承すること)の22年後、後柏原天皇

が58歳になってからであった。

 

朝廷の儀式の再興に全力を傾けるとともに、国民の平安に心を砕いた。

 

争乱が起こると伊勢神宮などに天下の和平を祈らせ、疫病が流行する

と「般若心境」を書写して延暦寺と仁和寺に納めて民の安穏を祈った。


第百五代 後奈良天皇




 


後柏原天皇が崩御し、31歳で践作した後奈良天皇。

 

しかし、相変わらず朝廷の財政は逼迫し、幕府の権威も落ちて、儀式の

費用もままならず、即位礼が出来たのは10年後であった。

 

それでも、即位儀礼の一つである大嘗祭を執り行うことが出来ず、

1545年、後奈良天皇は伊勢神宮に「大嘗祭をしないのは怠慢なので

はなく、国力の衰微によるものです。

いまこの国では王道が行われず聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた

下克上の心ばかりが盛んです。このうえは、神の加護を頼むしかなく、

上下和睦して民の豊穣願うばかりです」と詫びている。

上述(新聞記事)の『朕(ちん)、民の父母として、徳は覆すこと能(あた)

わず。甚だ自ら痛む。ひそかに般若心経一巻を金字に写し、義堯僧正

をして之を供養せしむ。こひねがわくは、疫病の妙薬たらんか』と。

困窮の中にあっても、後奈良天皇にとって最も大切なことは、民の平穏

無事をはかることだった。



第百六代 正親町天皇




 


後奈良天皇の崩御のあと41歳で践作した正親町天皇。

しかし、朝廷の衰えは続いており、すぐには即位できなかった。 

宣下を受けたのは15歳、即位するまでの26年もかかった。

織田信長の出現でようやく朝廷は安定の方向へ・・・。


「応仁の乱」が及ぼした深刻な影響が長く続いた時代です。


☆ 2年前にベストセラーになった「応仁の乱」(呉座勇一)です ☆


 

➡ 「応仁の乱」を理解しやすいと評判でしたが、けっこう難解で読み

   終えるのに苦労しました あせる 

 


   


新しい『令和』の時代を迎え、改めて「時代や政治体制は変わっても、

日本人や天皇の姿を学びたい」と思っています 合格


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