凡人の私が、なぜ自分の日記を本にして出版したいと思ったか。犯罪被害やヤングケアラーといった経験ももちながら車いすユーザーとなったからというのもなくはないが、もうひとつ理由がある。それは、書店に並んでいる闘病記や手記の大半が、身体に抱えた困難を越えるほどのたくましさが感じられるものだったからだ。闘病記、あるいは手記の主人公が大人で無名の場合、たいていは、何かを乗り越えてきたり成し遂げてきたりした成功物語であるような気がする。確かに何かを乗り越えることも成し遂げることもすばらしい。だが、何もそのような人たちにだけ価値があるのではない。
 長年、緩和ケア病棟で認定看護師として働いてきた女性はいう。「日常の営みこそがいのちの輝き」。
 緩和ケアにかんするシンポジウムなどにでかけると、「どんないのちもストーリーも等しく尊い」、そんな当たり前のことを改めて感じさせてくれる。
 詩画家として知られる星野富弘さんを追ったテレビのドキュメンタリー番組を見た時、彼が首から下の身体機能の一切を失って、口に絵筆をくわえて絵や文字を描く姿ではなく、彼の花への柔らかなまなざしと毎日を「丁寧に生きる」姿が印象に残った。
 「余命1ヶ月の花嫁」として有名になった若年性乳がん患者の長島千恵さんは、取材スタッフに「(病気になった今は)アイスクリームが食べられることも、風が感じられることも幸せ」というようなことを語っておられたらしい。おしゃれで旅行が大好きな「今時の若い女性」として生きていた千恵さんが、病気になり、いのちと向きあったことで、それまで当たり前にしていたことに心を動かしてはそれを身近な人に伝える様子は、幸せそうな花嫁姿と同じくらいに感じるものがあった。
 重い後遺症や病などにより、いのちと対峙した時、当たり前の日常がいかにかけがえないかに気がついたという人は多い。
 私が好きな映画のひとつに「マザーウォーター」という作品があるが、ただ歩いていたり、ただ黙って食事をしたりしているような日常的なシーンが、ものすごく丁寧に、そして大切に描かれている。
 映画の登場人物のコーヒー店を営む女性の台詞にこんなものがある。「毎日同じようにコーヒーをいれているつもりでも、そのコーヒーは毎日違っていて、永遠に同じものはいれられない」。平穏に暮らしていると忘れがちになるけれども、同じような毎日を過ごせることはかけがえないし、同じ時など二度とない。
 映画のエンドロールとともに流れるテーマソングに「命」という言葉がでてくるが、生死に直接触れるストーリーでなくても作品にマッチしていて、まったく大げさには感じない。それは、「日々の暮らしを丁寧に積み重ねることは、いのちを丁寧に積み重ねること。いうなれば、いのちは毎日の生活の積み重ね」、そんなことをそっと伝えてくれる作品だからだろう。
 私も、車いすユーザーとなって以降の日記には、特別なことよりも日常的なできごとをつづることが多くなった。車いすの身となったことをきっかけに、例えば食事ひとつとっても、食事ができることだけでなく、食事の準備ができることも、その準備のための食材を買いにいけることも、食材を買いにでかけたスーパーの店員さんの笑顔も、幸せに感じるようになった。「近所のスーパーにでかけられるのは、私が車いすでの生活を獲得するまでの日々を見守ってくれたたくさんの人のおかげ」。そう思うと、スーパーまでの道を歩んでいる時さえ大切に感じられた。
 車いすの上で手助けを受けるようになり、それまで気がつかなかった友人の一面を垣間見ることができたり、言葉であまり気持ちを表現しないタイプの友人の思いを感じることができたりして、絆が深まることもよくあった。他にも、人間関係が希薄だといわれる現代の都会であっても、これほどまでに道ゆく人が手を貸してくれるのだということを知った。

 車いすユーザーのなかにはユニバーサルデザインやバリアフリーの推進に注力されている方も多いが、私は、自身の日記を集めた本書によって、そうしたことを伝えようという意図はない。伝えたいのは、車いすでの暮らしをつづった日記の向こう側にある「いのち」や「生きてきたこと」、「生きていること」。車いすをキーワードにして。

 私は、”車いすユーザー初心者”の頃から何年もの間、車いすを押すなどして助けてもらいながら、介護や介助を受けている感覚をもつことはあまりなかった。ケアを受けながら得るのは、たいてい「生きる力」、いってみれば「明日をみる勇気」。それは、車いすの身になる以前から、犯罪被害やヤングケアラーといった、いのちに触れる経験をしてきた影響も大きいだろう。

 私は、「自分や他人のいのちを大切にするだけでなく、互いのいのちを思いあえる社会になれば……」と願っている。例えば駅などですれ違う人にぶつかってしまった時、口先だけでなく、相手を思って心から「すみません」と謝る、それも「いのちを思う」ことなのではないかという気がする。そうして小さなところから人を思いやれば、社会はもっと気持ちのよい優しいものになるように思える。そしてそんな社会は、心身が健康な人にとっても、そうでない人にとっても、住みやすいのではないだろうか。そんなことを考えていても、私も、日常などのなかで誰かを傷つけてしまうこともあるのだけれど。

 本書の前半は特に、私の日記のなかから日常の暮らしをつづったものを中心に掲載している。それは、車いすユーザーの患者としての生活も、犯罪被害者やヤングケアラーとしての生活も、なにげない瞬間や時間のかけがえのなさを教えてくれたからだ。逆にいえば、なにげない日常があっという間に崩れてしまう怖さも経験した。後半は、医療現場での思いをつづっていることが多い。前半の日記を書いた時期には、「犯罪被害経験やヤングケアラー経験ももちながら、どう車いすユーザーとして生活していけばよいのか」と迷っていた。また、後半の日記を書いた入院も含む時期は、「犯罪被害経験やヤングケアラー経験ももちながら、どう患者生活を送っていけばよいのか」を、病院の中や外で出会う人たちに助けられつつ思考していた。

 なにも私だけでなく、犯罪被害者も、ヤングケアラー経験者も、体に病気や不自由さをもつ日がくるかもしれない。その時どうすればよいのかは、私にはよくわからない。ただ、これからはじまる日記には、私を安心させてくれた言動や穏やかな気持ちで過ごせた時間が、いくつも詰まっているのは確かだ。とりわけつらい時には、たとえつたない文章であっても、自分自身の日記が「トレジャーボックス」となっていた。「私には、あたたかい気持ちで過ごせた時間があったんだよ」と自分にいい聞かせるための……。

※このプロローグは、事情により、8年ほど前に書いた文章も含まれています。