3月11日がやって来る。9回目の哀しみが私を襲う。



私の実家は仙台市にある。家は高台にあり、海からも離れていた為、そう被害は受けなかった。家族は私の通っていた小学校へ、一日だけ避難する事になった。


帰宅した後、暫くの間は給水を受ける等、不自由な生活を強いられたが皆元気だった。


しかしあの日、テレビに映る光景は、はっきり覚えているし、衝撃だった。未だに目に焼き付いて離れない。


そして映像を観た時の、なんとも言いようのないショックと嫌な胸騒ぎがこみ上げてきた事を、忘れられない。



震災から一週間程経った頃だったろうか、同級生から留守電が入っていた。私は内容を聴くのが怖かった。何度か躊躇したが、意を決して深呼吸してから音声を聞いた。



私の嫌な予感は当たってしまった。



大親友の ちかこ が、亡くなったらしい。と。。。。被害者のテロップの中に名前があった。年齢も合っている。と言う内容だった。



それから同級生は、遺体安置所を探し出してくれて、私の所に連絡してくれたのだ。


ずっと気になっていたのに、怖くてすぐ連絡できず、実家の家電も何日か通じなかったせいもあり、「便りが無いのは元気な証拠。落ち着いたら電話しなきゃ。」などと考えていた自分が恥ずかしい。。。




ちかこは、仙台市の隣、名取市の閖上(ゆりあげ)と言う海の近くに嫁いでいた。その日は息子さんが通う中学の卒業式があり、昼過ぎから学校の友達数名がちかこの家に遊びに来ていたらしい。



テレビゲームをしていた、、その時の地震。


子供達を自分の車に乗せて、高台に避難させた。そしてその後ちかこは…車に乗れなかった、別棟に残したお義母様とお祖母様を迎えに行く為に、車で家まで戻る途中で津波に遭ってしまったのだ。

一度は高台に避難したのに、家族を助ける為に危険を顧みず家まで戻ろうとしたのだ。


ちかこらしいな。。と思う行動だ。が、おそらく戻る途中で津波が押し寄せたのだろう。。車の近くで発見されたらしい。普段つけていたコンタクトレンズは外れていたそうだ。



お義母様とお祖母様は行方不明となり、最終的には DNA鑑定で判明し、5ヵ月後の8月、葬儀が執り行われた。ちかこの実のお母様は気丈にしてらしたが、私はちかこにそっくりになった、娘さんと息子さんを見ると辛かった。。。しかも明るく振る舞おうとして接してくれる子供達を見て、尚更悲しみがこみ上げてきた。


遺影のなかのちかこは、微笑んでいたが
それをみた自分は、今までの楽しかった思い出、津波に襲われた時の恐ろしかっただろうとの思い、彼女の家族、子供達への思い等などを考えると、如何程の無念だったろう事を偲ばずにはいられず、涙した。



どんなにか辛かったろう。どんなにか恐ろしかっただろう。と、考えると涙が止まらなかったのだ。


ただ、家族が見つかり一緒に葬儀ができた事はよかった。少しだけホッとしたと思う。


あれから、毎年この時期が来ると、テレビで特集の放送があるが、私は観ることができない。復興に関してや町興しなどのニュースは平気だが、津波の映像だけは、胸の辺りが苦しくなってしまうのだ。



被害を受けた方々、ご家族を失ってしまった方々、未だに行方がわからない方々に於いては、私などより数百倍、数千倍、いや、悲しみや悔しさは、計り知れない程ある事と思います。



私はこれからも 忘れる事はないであろう、ちかこ の存在を偲んで生きて行きます。



先日、何気なく彼女の名前を検索したら 初めて見る故人へのメッセージを書き込むサイトがありました。検索したのが初めての事で そのサイトは2011年の震災の後、どなたかが立ち上げたらしいです。
警察からの発表者名簿に基づいて、名前、年齢、いつどこで亡くなったのか。まで書いてあり驚きました。

登録が必要でしたので、少し時が経ったらゆっくりメッセージを書き込もうかなぁ…と思ってます。




下の画像は
名取市、閖上(ゆりあげ)の普段の海の様子です。ネットからお借りしました。







災害に遭われた方々には
一日でも早く復旧、復興されて落ち着いた日々を過ごす事ができますようお祈り申し上げます。無念な思いをされた方々には、心からお悔やみ申し上げます。







最後まで読んで下さり
ありがとうございました。