高知県(土佐藩)の出世頭


安芸市の
生家の記事を
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高知県東部
阪神タイガースタウン
「安芸市井ノ口」に
1834年12月11日に
生まれました




生まれた時から
気性がはげしく
ワンパクでしたが
母親が弥太郎を
勉強へと目を向けさせた

学友の岩崎馬之助は
品行方正で
間崎哲馬、細川潤次郎
と共に
土佐の三神童ともよばれる
秀才で
何時も比較され
母親は「馬之助」に
負けるなと
励ましつづけると

高知城下の陽明学者
「岡本寧浦」
の私塾で学び
儒学者「奥宮慥斎」
に懇願して従者として
江戸遊学が
許され
安芸市球場上の
妙見山に在る
「星神社」に
決意を書いたと
言われてます

1855年
江戸の「安積艮斎」
の塾に入る事が出来ました
父親が犬猿の仲の庄屋
「島田便右衛門」
に打ちのめされ
重症だと
母親からの手紙を受け
一年余りの遊学に
終止符をうち
馬を使った早飛脚でも
14日かかる道程を
自らの脚で16日かけ
江戸から帰り
田野町の郡奉行所に
訴えたが
聞き入れられず
役所の壁に落書きして
投獄された

7ヶ月の投獄中に
ソロバンや商売の仕方を
同じように
投獄された人に
学んだとされる

高知城下四ヵ村の
立ち入りを禁止され
同じように
長浜で謹慎処分中の
「吉田東洋」の開く
鶴田塾で
後藤象二郎や
福岡孝弟、間崎哲馬らと
学んだ





土佐藩の仕置き役に
再び就いた東洋の推挙で
弥太郎は
郷廻り役という
土佐藩の職に初めて就いた

しかし
赴任した長崎では
思うように仕事が出来ず
免職されるが
1867年
「土佐商会」主任として
再び長崎へ赴任

土佐藩直営の土佐商会は
土佐の物産の販売や
武器弾薬の買い付けを
行い

坂本龍馬の海援隊の
給料の支払い等
土佐商会の経理を担当
他藩の経済官僚との
交流でを通じて
ビジネスの基本を
身に付けた

1868年明治元年
土佐商会の閉鎖に伴い
大阪に転勤し
藩の船三艘を借り受け
九十九商会を設立
土佐の海運業を担う
民間会社で
これが
三菱の始まりと
言われてます

その後
三つ川商会、三菱商会と
改称しながら
事業を発展させて
いきました

その後
台湾出兵や西南戦争で
政府軍の輸送を
一手に引き受け、
政府の信頼を得て
米英との海運会社との
競争にも勝ち
「東洋の海上王」
ともよばれたが
52歳
明治18年(1885年)
胃癌で亡くなりました

弥太郎亡き後
弟の弥之助が後をとり
海運業以外の
事業の多角化を図り
三菱を
日本最大級の財閥へと
発展させていきました

因みに
かつて三菱グループだった
キリンビールのロゴは
頭が龍で
身体が馬




出世した

人物語って

夢馳せる

グラサングラサングラサングラサングラサン

家飯は
だし巻き玉子



ソコソコ美味しく出来ました😅