人斬り
以蔵


海援隊の近藤長次郎の肖像なのに
何故か岡田以蔵の墓所に
飾られていた????😅

こと
岡田以蔵(宜振よしふる)
郷士である(父)宜之と
(母)里江
の子供として
1838年
江ノ口七軒町
(現在の相生町)
に生まれて
近所の
『武市半平太』の
道場で剣をまなび

その後江戸に出て
鏡新明智流
桃井春蔵にまなぶ

1862年
土佐藩主豊範(容堂)に
従い江戸に上京
その前後
土佐勤王党首
武市半平太の命令で
佐幕派人物を
天誅と称して暗殺した

その罪で捕らわれ
唐丸籠で
土佐に送られ
山田町(現在のはりまや町)
の牢屋で拷問に屈し
土佐藩士
井上佐一郎の
土佐藩の要職を勤めた
吉田東洋の暗殺者追及
を避ける為に
同士と共に殺害した事を
同志の名前と供に自白し

1865年
仲間らと共に打ち首
となったが
ただ一人だけ
晒し首となった
岡田以蔵28歳の5月11日
の事であった

辞世の句
君が為
尽くす心は
水の泡
消えにし後は
澄み渡る空

父親はその約1ヶ月後
58歳で亡くなっている
岡田家の家紋

https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/08/14/114412
墓地は薊野澤田マンション裏の小山



澤田マンション
目印の電柱は澤田マンション左へ20メートル
この路地突き当たり
左奥に建つ
アパート裏にある
細い路を
50メートル位進むと登り口
所々に道標がありますが
絵金の墓は見つかりませんでした
岡田一族の墓地
奥の端が岡田以蔵の墓石



右の端が以蔵の墓石
隣が弟の妻の墓石
三番目が弟の墓石
父親の墓石は右から四番目




青春を
時代の流れが
翻弄す

参考迄に
岡田以蔵の犠牲者
土佐藩士、井上佐一郎
本間精一郎
森孫六
大川原重蔵
渡辺金三
上田助之丞
長野主膳の愛人
(村上たか)の息子(多田帯刀)

幕末四大人斬り
薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)
薩摩藩の田中新兵衛
肥後藩の河上げんさい(彦斎)
書いてありました