東昌寺 市川船橋戦争の官軍兵士の墓 | nonki1945のブログ

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東昌寺 市川船橋戦争の官軍兵士の墓

市川市八幡 東昌寺

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戊辰戦争 市川船橋戦争時の官軍兵士戦死者の墓
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伊勢 津藩士                 備前 岡山藩士   菅 鋿三郎「忠山義賢居士」          花房喜三太「義州深源居士」                          信正卯兵衛「實道忠雄居士」 イメージ 3   イメージ 4 イメージ 5 「慶応四戊辰年閏四月三日賊徒追討役岡山藩遊奇隊花房喜太夫之重堂信正卯兵衛治下總國葛飾郡八幡町ニ於イテ戦死ヲ□是東昌寺住職其為メニ墓標ヲ建ツ官其殉国ノ志ヲ哀ミ今時ニ是標ヲ建テ□テ不朽ヲ謀ルト云ウ」 慶応4年正月、京都の南で起こった鳥羽伏見の戦いをきっかけに、明治天皇を擁する薩摩・長州を中心とする官軍側と、旧幕府軍との戊辰戦争は、舞台を江戸に移し、江戸城の無血開城となるわけだが、無血開城に反対の旗本を中心とする旧幕府軍の一部は、上野の山や上総方面・流山から北関東に逃れ、態勢を立て直して官軍側に抵抗していく。 その中で、上総(房総)に逃れた撒兵隊は、木更津から千葉を経て、船橋の大神宮・市川の中山法華経寺に駐屯し、小岩側から、武装解除させようと迫る官軍側との戦闘に突入する。 それを『市川船橋戦争』と呼ぶ。戦いは、閏4月3日の未明、法華経寺から進発した撒兵隊第一大隊が、八幡宿に駐屯していた備前岡山藩兵に襲いかかり、市川宿から駆けつけた伊勢津藩士も交えて激戦となる。ここでの戦いは旧幕府軍が勝利し、市川宿まで進撃、再度戦闘が繰り広げられる。 北の鎌ヶ谷宿の砂土原藩兵が船橋の北から攻撃、行徳からは筑前福岡藩が海神へ この結果、旧幕府軍撒兵隊は、上総方面へ退却していくのである。それそれの戦闘は小さかったものの、 この東葛飾の地で、140年前に、大砲が撃たれ、小銃で撃ち合う戦闘が行われ、たくさんの兵士が戦死し傷ついた。そして、市川も船橋も戦火に焼かれていったのである。 【市川船橋戦争 午前中の旧幕府軍撒兵隊と官軍側の各藩兵の動き】
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この市川船橋戦争戦闘図は、山形絃著「市川・船橋戦争」掲載図が、午前中と午後の戦闘として2枚になっているので、勝手に一部改変して、それをもっと細かく、午前中の2枚の地図に詳細記述したものである。