特攻から生還した佐々木伍長 | 世界珍ネタHunter!

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戦争末期に常態化された特攻戦術は、練度の高いパイロットからは土気を下げる要因になる事は何度も指摘されていたのにパイロットの練度を上げるに必要な時間も無かった日本に取っては早期戦力化させる為に強行された戦術が敵艦船に対して高空から急降下して搭載した爆弾を投下するのが効果的だと判明している。そのためには、高所から爆弾を落とし、高速で甲板を貫く必要がある。貫く速度は高度に比例するので、高度3000メートルから徹甲爆弾(甲板を貫く威力を持つ爆弾)を落とすというのが最低条件とされていた。しかし、攻撃隊で使用される機体の降下速度は爆弾の落下速度の半分程度。敵艦に体当たりできても、「卵をコンクリートにたたきつけるようなもの」。優秀な爆撃機パイロットを抱える現場の鉾田飛行師団は、特攻作戦に反発した。陸軍の航空本部や第三陸軍航空技術研究所に、「体当たり攻撃がいかに無意味で効果がないか」という理論的反論をした公文書を三度も出したそうだ。しかし、却下。「崇高な精神力は、科学を超越する」というのだ。戦況は悪化する一方。もはや高空から爆弾を目標に落とせるパイロットを養成する時間がない。1944(昭和19)年秋、フィリピンで特攻戦術が始まった。佐々木友次伍長は陸軍の特攻作戦の第一陣、「万朶(ばんだ)隊」の一員だ。当時21歳。鉾田飛行師団に所属し、最終的に9回出撃して9回還ってきた。まさに「不死身の人」である。なぜ佐々木伍長は何度も「生還」できたのか。「万朶隊」の隊長に指名された鉾田飛行師団の岩本益臣大尉(当時28歳)の存在が大きい。岩本大尉は操縦と爆撃の名手と知られていた。したがって、操パイロットと機体を犠牲にする特攻作戦に強く反発する一人でもあった。自分たちは血の出るような訓練で、飛行技術を磨いてきたのに、「体当たり」はそのすべてを否定することになる。最終的に岩本大尉は、特攻隊長としての出撃命令には従いつつも一計を講じる。飛行機に搭載された爆弾を手動で落とせるように独断で改造させたのだ。軍機違反だが、航空機の修理を担当する航空廠の分廠長は黙認した。特攻攻撃を「馬鹿げた戦術」と考える人が少なからずいたのだ。フィリピンで最初の特攻出撃。大本営発表によると、佐々木伍長は「戦艦に向かって矢の如く体当たりを敢行して撃沈」。しかし、実際には佐々木伍長は生きて還ってきた。これに軍上層部は慌てた。そしてただちに、「死んだ男」に再度の出撃を命じる。特攻隊員は死ぬことになっている。すでに死んだ、と発表し、「軍神」になっている。死んでもらわないと困るのだ。そうして何度も出撃命令が繰り返され、そのたびに佐々木伍長は還ってくる。「万朶隊」の要員に指名されたのは、それまでに多数の戦果を挙げていた腕利きのパイロットが多かった。初回を成功させる必要があったし、軍上層部には、彼らでさえ、この特攻作戦の先頭に立っているということを強くアピールすることで、戦意高揚を図る狙いもあったとされる。ところが皮肉にも、佐々木伍長はあまりにも腕がよかったようだ。冷静な判断力に加え、運も味方した。「生還」を繰り返す佐々木伍長は、フィリピンのジャングルで生き延びて昭和21年1月、日本に戻った。