無職から高級車コレクターへ成り上がったイギリス人 | 世界珍ネタHunter!

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全てはポルシェへの愛から始まった…高校を中退して、19歳でイギリスからアメリカに移住。ふとした偶然から生まれたビジネスを成功させ、自由を手にしたと語るマグナス・ウォーカーが、自身の半生におけるターニングポイントを振り返った。マグナス・ウォーカーは、イギリスのシェフィールドで1967年に生まれ、15歳の時に高校を中退し、19歳の時にアメリカへ移住した。
高校を中退した当時は将来がまったく見えないのに28年も前にアメリカに移住したのだが、アメリカはチャンスの国だと信じていた。そしてそれ以来、3つのことを成し遂げた。成功したアパレル会社、映画のロケビジネス、そして多くのクラシックポルシェコレクション。マグナス・ウォーカーが成し遂げたこの3つには共通する土台がある。まず、公式な教育を受けずにそれら3つを成し遂げたこと。そして、それらを自分がやることになるとは思ってもいなかった事。将来、自分がどうしたいか分からなかったにも関わらず、それら3つを成し遂げた彼が常に求めていたことは、自由だった。好きなことを何でもする自由。最高の自分で、自分に出来る最高のことをする自由。1977年はイギリスにとって特別な年だった、当時はパンクロックが流行っていた。彼はモーターショーに連れて行ってもらい、そしてそこで白のマティーニポルシェ一目惚れしてしまった。70年代後半、80年代前半に育った世界中のどんな子供も、この3つの車いずれかに惚れていた。ポルシェターボ、フェラーリボクサー、またはランボルギーニ。彼はなぜかポルシェに惹かれていた。10歳の時に彼はポルシェ社に手紙を出した。「あの車が欲しい、ポルシェのデザインをしたい」という内容だった。彼らはその返事に、「あの車はちょっと古くなってきているから」と添えて車のパンフレットを一緒に送ってくれました。ポルシェ社のほうから彼に手紙を書いてくることになるのは後の話。彼が生まれたイギリスのシェフィールドは、北部鉄鋼の街で、その街にポルシェが走っていることは殆ど無い。1977年、モータースポーツもよく見ていた。父はセールスマンで、労働階級の暮らしだった。カッコいい車が身近にあったわけでもない。当時の彼は、どうにかしてポルシェと関わるようになるぞ!と心に決めていた。当時の彼は中距離走の選手で、チームではなく個人競技が好きだった。一人で走るのがとても好きで、どんどん速くなった。同じ頃、ヘビーメタルにもハマったが、シェフィールドは少しどんよりとした街だったが音楽に溢れる楽しい場所でもあった。ポルシェに恋して、中距離走選手として国内で名を上げ、ヘビーメタルにはまり、高校を入学して暫くして学校を辞めようと決意した。こうして1982年、学校を辞めたのだが、明確な目的も無く中退したので未来が無かった。パブでお酒を飲み、クラブで楽しんだりしていたが、中距離走の選手だった彼にはそのライフスタイルは合わなかったので、だんだんとそれも頻度が減った。高校中退後は、様々な仕事をしながら生計を立てていたが、様々な場面でこのように言われるようになりました、「髪を切ってきちんとした仕事をしなよ」と。建設現場で働き、実家暮らし、車もないので常にバス通勤。こんな状態でも2年程度は別によかった。しかし、17歳になって髪を切るつもりはないけど、きちんとした仕事を得るほうがいいだろうと思い直した。1年ほど、大学でレジャーとリクリエーション、スポーツマネージメントのクラスを取った。そこで「キャンプアメリカ」の存在を知ったが、それが何のことだかは知らなかったがキャンプアメリカは、アメリカのサマーキャンプに参加するプログラムの事だった。子供の時はよくアメリカのテレビ番組を観ていた。アクションや車ものをよく見ていたので、アメリカに憧れを抱いていた。彼はキャンプアメリカ参加に応募した。そして、キャンプアメリカに参加することが出来るようになった。ニューヨークに飛んでから、バスでデトロイトまで移動した。デトロイトはシェフィールドと同じように、かつて工業で栄えた街であり、それと同時に自動車産業も盛んな街である。しかしデトロイト内にいたわけではなく、そこから車で北に30分ほど行ったところにある街で、デトロイト出身の恵まれない子供達の手助けをするのが仕事だった。カルチャーショックを受けた彼は、イギリスのシェフィールド出身のヘビーメタル狂いでしたので、アメリカの田舎暮らしに慣れなくてはならなかった。しかし、割とすぐに慣れ、キャンプが終わると、またバスに乗って西へ向かった。こうして1986年、ロサンゼルス、ユニオン駅へ朝4時に到着した。朝の6時頃、気がついたら公園のベンチで眠っていた。ロサンゼルス市警の警官から「ここで寝てはダメですよ」と言われた。アメリカのテレビ番組でロサンゼルスが舞台となっているものなどもよく観ていたが、素敵な映画俳優やロックスターは一体どこにいるんだろう? と実際のロサンゼルスを見て少しガッカリもしたと言う。それは、ロサンゼルスのダウンタウンにはそのような著名人は居なかったからである。そこですぐにハリウッドに移動し、ロサンゼルスに到着した3日後にターニングポイントが彼に訪れた。彼はハリウッド通り沿いにあるYMCAの安宿に滞在しハリウッド通り沿いにある店を見ながらショッピングしていると、ワニ革パンツが9.99ドルで売られていたのでそれを購入した。しかし、どうしてもそのパンツがフィットしなかったので、安宿に戻り裁縫道具を借りて自分で直した。そしてメルローズ通りの話を聞いていたので、直したパンツを履いて行ってみることに。そしてパンクロックの店に入る。その店の店員であり、「ファースタープッシーキャット」というバンドのメンバーでもあるタミングという男と、「自分はイギリスから来て……」と話をしているうちに、「そのパンツはどこで買ったんだい?」と聞かれた。突然の事だったので、「これはイギリスで買ったんだ。なぜ? このパンツ欲しい?」と冗談で言っていました。彼はそれに対して「買うよ! いくらだい?」と。別にこのパンツは売る為に購入した訳ではありませんでした。25ドルでどうだい? というと、彼は買うよ! というので、またハリウッド通りに戻り、同じものを八本買ってきて、彼に売り、一本のパンツにつき15ドルの利益を出した。この一時間で稼いだお金はイギリスで一週間工事現場の肉体労働で稼いでいた金額を超えていた。「なんだ、簡単だな! ロサンゼルス最高!」と思ったと言う。英語も通じるし、ロックが流行っているし。そこからの数年は素晴らしい年だったと言う。そして1989年、彼は古着ビジネスをしてヤードセール等で安く仕入れた古いリーバイスやカウボーイブーツを屋台で販売していた。当時屋台を出していたベニスビーチは人気観光スポットで、特にヨーロッパからの旅行者がたくさん訪れる場所だった。そして少しずつビジネスが大きくなり、Serious Clothingというショップを立ち上げる事になる。そして、彼が立ち上げたブランドはアリス・クーパーやマドンナ等ビッグスターの衣装も手掛けるようになる。更に卸売も始める。ホット・トピックというチェーンブランドを5店舗展開し始めた。それが今では500店舗以上を展開する。数点の洋服を扱うところから何千何万もの洋服を取り扱うまでに成長した。1994年、アパレルビジネスをやるにはベニスではなくダウンタウンだ! と、ダウンタウンのロフトを六年契約で借りた。Serious Clothingはたくさんのミュージックビデオ、雑誌にも協賛するようになり、スタイリスト達からの連絡が途絶えることは無かった。Serious Clothingはとてもユニークで、生地には洋服用のものに限らない。例えば車のシートをジャケットにしたりしている。普通では考えつかないような素材を素敵な洋服に変える。要は自分たちが着たいものをつくっている。2000年になると、これまでに払ってきた家賃が二人分の住宅ローンを全額支払うのと同じ金額であることに気がつき、自社ビルを購入することにした。
1994年には注目のトップ10アパレルブランドにランクインした。2000年に妻がアートが盛んなエリアでこの物件を見つけてきた。周囲の人達にはこんな物件を買うなんて、やめたほうがいいと言われましたが、彼は直感でこの物件の購入を決めた。購入から一年後、ミュージックビデオ撮影の為にあなたのビルを貸してくれませんか? と連絡がありました。そこから私達の撮影ロケビジネスが始まった。2001年以来、一年に100日ほど映像撮影が入る。低予算のものから、大きな映画まで。十以上のリアリティTV、例えば「America’s Next Top Model」とか、それを通じて、たくさんの面白い人々に出会った。彼は撮影現場として提供するビジネスをする目的でビルを買った訳では無かった。住めて、仕事が出来る自社ビルを購入したかっただけなのがロサンゼルスでニーズのある「撮影」というビジネスに図らずも繋がってしまったと言う。
彼はどうやってこのように成功することが出来たのですか? と聞かれると、「直感を信じてきただけですよ」と答えると言う。
アでこの物件を見つけてきた。周囲の人達にはこんな物件を買うなんて、やめたほうがいいと言われましたが、彼は直感でこの物件の購入を決めた。購入から一年後、ミュージックビデオ撮影の為にあなたのビルを貸してくれませんか? と連絡がありました。そこから私達の撮影ロケビジネスが始まった。2001年以来、一年に100日ほど映像撮影が入る。低予算のものから、大きな映画まで。十以上のリアリティTV、例えば「America’s Next Top Model」とか、それを通じて、たくさんの面白い人々に出会った。彼は撮影現場として提供するビジネスをする目的でビルを買った訳では無かった。住めて、仕事が出来る自社ビルを購入したかっただけなのがロサンゼルスでニーズのある「撮影」というビジネスに図らずも繋がってしまったと言う。
彼はどうやってこのように成功することが出来たのですか? と聞かれると、「直感を信じてきただけですよ」と答えると言う。