
ミサイルをぶっ放すと何かと物騒な北朝鮮だが、そもそも北朝鮮を建国した金日成は金ではなく朝鮮の独立運動化寡であり元日本陸軍中尉であった金光瑞(キム・ガンソ)ではないかと言われている。彼は日本留学時に留日朝鮮人学生たちの二・八独立宣言に影響されて、留学を放棄して京城へ戻り日独立運動への参加を決意し、陸士後輩の池青天とともに国境を越え、満州へ向かった。とりあえず落ち着いた先は、南満州の新興武官学校の教官であった。教官の中でも、日本陸軍の現役将校だった擎天と青天の名声は高く、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申東天とともに「南満の三天」と称えられた。1917年に勃発したロシア革命で日本を含む連合国は 旧ロシア帝国軍、白軍派コサック軍から成り立つ白軍の加担を決め日本はシベリア出兵を行っていた。擎天がシベリアに移った時期には、レーニンに資金援助を求める指針が決定され、在満州(間島)、シベリアの抗日朝鮮人集団は、赤軍に荷担する運びとなっていく。赤軍に協力して白軍と戦闘をくりひろげたが、1922年にロシア内戦は終結しソビエト共産党が政権を掌握する様になると朝鮮人の抗日パルチザンもまた役目を終えた。ソビエト政権は、日本との関係修復のためにも、独立運動団体の武装活動を見逃すわけにはいかなくなっていた。1930年代の半ばから、スターリンの大粛清の一環で、ソビエト共産党や公的機関の要職にあった朝鮮人指導者、知識人に弾圧の手がのびた。1936年、擎天もスパイ容疑で逮捕され、3年の刑を受けた。翌1937年、沿海州に住む朝鮮人20万人は、すべてが強制移住の対象となり、短期間のうちに中央アジアへ移送された。擎天の妻子もカザフスタンのカラガンダに送られ、「人民の敵」のレッテルのもと辛酸をなめていた。擎天は1939年に釈放され、家族のもとにたどり着いたが、ともに過ごせたのはほんの一月で、同年に再逮捕された。今度は8年の刑を受け、カラガンダのラーゲリに収容されたが、1941年、独ソ戦の勃発とともに移監され、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡した。第二次大戦後、北朝鮮におけるソ連軍の諸事業は、まず、軍政の実施であり、ソ連の衛星政権を樹立することであった。ソ連は衛星政権を樹立するために、共産党の息が掛かっている東北抗日連軍終身者を政権の中心し、その代表者には普天堡襲撃事件の時の第6師長として、その名を当時の朝鮮人に広く知られた「金光瑞=金日成」であった。彼が死ぬと彼の後継者は「金日成」という名前を継承した。ソ連士官学校出身である彼は第一路軍第2方面部長・金日成として広く知れ渡っており、ソ連に後退しては、オケアンスカヤ野営学校の責任者になった。しかし、彼は8・15解放前に死んだ。ところが、ソ連は非常に便利な事実を発見した。満州の中共党遊撃隊の金日成という名前の人物は広く知られているが、金日成がどういった人物なのかは誰も知らないという事実であった。ソ連軍当局は、誰かを金日成に偽装させて登場させればいいと考えソ連軍当局による偽装により金聖柱は「金日成」として仕立てられた。それだけにとどまらず、「金日成将軍」と命名し、北朝鮮の建国者でもある偽将軍様がソ連の情報操作によって誕生した。

