
世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハ発動機との間には深い因縁がある。第二次世界大戦の拡大と共に東海精機重工業(現:東海精機)は2000人の従業員を抱える工場にまで成長し、自動車エンジン用ピストンリングよりも航空機エンジン用ピストンリングの生産を主流に行っていた。時を同じくして戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ)の社長であった川上嘉市は、それ迄木製ピアノや木製プロペラ等の木製品の生産が主であった事から金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業の当時社長であった本田宗一郎を頼った。宗一郎はカッター式自動切削機を自作し、金属プロペラの製作時間はそれまで手作業で汎用フライス盤を用いて一週間に1本の割合で製造していたプロペラを僅か30分で2本を製造出来る能力のある自動削り機を考案した。川上嘉市は本田が鉄の定量分析をやり、高周波電気炉や高周波発電機まで自作してる天才技術者だと、最大限の評価を与え「本田宗一郎君は日本のエジソンだ」と称賛し、同社の特別顧問に迎えた。当時、プロペラ生産は「手作業」に依存し、十分に機械化されない点にあった。しかも性能の低い従来の荒削り機でさえ仲々入手し難い現状で、しかも加工精度の高いドイツ製自動加工機でさえ、肉厚部と先端部の肉薄部ではフェイスミルの回転速度と送り速度に対して十分なる機械学的解決が行われておらず加工材が振動を起す事で加工面は波打ち理想的な表面粗さを得られなかった。この為、プロペラの切削は手作業にしなければならなかったが、本田はこの問題を見事に解決した。フェイスミルと加工材の接触速度はフェイスミルの自動変速によって肉の厚薄に係わらず常に一定し、モデルを基礎として同時に二本のプロペラがグルグル回転しつつまるで皮を剥く様に削られ仕上げも同一機械で仕上げられた。しかも操作は単純で未熟練工が同時に2,3台もの機械を受持ちが出来、生産効率が向上したと言う。プロペラ自動切削加工機は、重さが20t、長さが7メートルもの大きさだった。

