先任搭乗員の石田上等兵曹の声に、「不時着・・・?」
艦爆分隊士の平野中尉は、一時間程前、偵察員の田貫飛行兵長とともに元気に離陸して行った小川二等飛行兵曹の顔を思い浮かべながら、電報受信紙を挟んだ紙ばさみの板を受け取った。
「エンジン不調の為、佐伯空に引き返す、現在位置東経33・5度、北緯33度」
平野は飛行指揮所の壁に貼ってあったチャート(航空図)を眼で追って、
「高知の沖あたり、土佐湾のど真ん中だな・・・」
と石田兵曹の顔をふり返った。
「はあ、この辺は飛行場がありませんので、紀伊半島を越えて鈴鹿へ出るか、佐伯の航空基地に引き返す位しか、不時着の場所はありませんですな」
「とにかく、隊長と飛行長には報告しておこう」
平野は、紙ばさみを持ったまま、飛行長室の扉を押した。
飛行長の栗田中佐と、艦爆隊長の出口大尉が、書類を前にして激論していた。
「飛行長!是非、小川と田貫のペアも連れて行ってやって下さい。彼らも今度の出撃を楽しみにして、今まで猛訓練に堪えてきたのです。ここで霞ヶ浦に戻すというのでは、殺生ですよ」
「だがね、隊長、田貫はともかく、小川兵曹の場合は、母親の病気が重くて、明日をも知れぬ命だという。父親がいないので、生活もひどく苦しい、何とか息子を除隊させて、農業をやらせてほしい、という懇願の手紙が来ているんだ」
「それは分かっていますがね、15歳の妹が新聞配達をして、薬代を稼いでいるということも聞いてますがね・・・」
そこへ、平野が入って、不時着の旨を伝えると、2人の表情が緊張した。
「何か不手際があったのかな?小川兵曹は、近頃、降爆の成績も落ちていたからなあ」
「そうだな、佐伯の飛行隊長にすぐに電報を打っておいてもらおうか、艦爆1機、貴航空隊に不時着の予定。着陸予定時刻は、え~と今が2時過ぎだから、午後3時としてもらおうか」
「承知しました」
飛行長から電文案を聞いた後、平野は飛行長室を出た。昭和17年8月10日であった。
8月7日に有力な米軍の上陸部隊がソロモン群島のガダルカナルに上陸し、陸海に激戦が繰り広げられ、空母「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本の機動部隊にも出撃命令が下り、飛行科をはじめ、各科では出撃準備に追われているところであった。
午後1時、横須賀航空隊まで、予備の水晶発振器を受領に鹿児島基地を飛び立った、小川宗助二等兵曹操縦、田貫峯男兵長偵察の99艦爆1機が、土佐沖でエンジン不調のため、佐伯航空隊に不時着するというのである。平野中尉は、指揮所から外へ出ると、空を仰いだ。むろん、不時着する機が見えるわけではない。異変があると空を仰ぐのは、航空機搭乗員の性癖であった。平野は、この年の4月に海軍中尉に進級し、6月、「瑞鶴」乗り組として、鹿児島基地に赴任したばかりである。小川兵曹と田貫兵長の機は、彼の3番機であった。小川は気性の激しい、艦爆乗りには最適の男であったが、6月の終わりに、母親が結核で入院したという便りを受け取ってから、ふさぎこむようになっていた。酒を呑んで暴れることもあった。鹿児島市内の鶴鳴館という大きな料亭で、「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」など空母搭乗員の慰労会がひらかれたときのことである。
珍しく、小川兵曹が分隊士の平野にからんだ。
「分隊士!分隊士なんか、お坊ちゃまですな・・・」
「何がお坊ちゃんだ、何か文句があるのか」
かたわらに若い芸者がいたので、平野も強気になって反撃した。
「分隊士は、兵学校出のために、わしよりも若くて中尉じゃが、腕はわしの方がずっと上ですぞ、おわかりかな?」
「当たり前だ。小川兵曹の方が年期が入っとるもんな。しかし、近頃、成績が落ちて来たな」
「それですて、分隊士。分隊士にうかがいますがな。分隊士は、ケツの穴は1つでしょう」
「当たり前だ、誰でもケツの穴は1つだ。2つあったら化物だ」
「いや、違う。わしの家は小田原の漁師じゃが、ケツの穴が5つあるんですよ」
「なに、5つ・・・?」
「左様、先ず、わしでしょう。それからおふくろ、15になる妹に、小学3年の弟、それに、おばあちゃんがいますからな、都合5つのケツの穴の世話をわしの給料でやっとるんですわ」
「ふうむ、つまり、家族4人を養っとるというわけだな」
「左様、5つのケツの穴から、毎日クソが出るようにするには、相当な食いぶちが要るですぞ、おわかりかな?」
「もっときれいな言い方をしたらどうだ?5人の口に食わせているということだろう」
「ですがのう、食わせるだけなら簡単じゃが、満足にケツの穴からクソが出るように、体を丈夫に保ってゆくのは、並大抵ではありませんぞ」
「それは、そうだな・・・」
平野の家も裕福ではなく、東京の中級サラリーマンであったが、小川兵曹のいう、ケツの穴の心配をする必要のない体であった。母が病弱で時々入院していたが、父親が健在なので、平野はパイロットとして軍務に打ち込んでおればよかったのである。
「とにかく、士官には分からんですよ。わしの苦労は・・・」
そう言い捨てて、小川はコップで酒をあおった。
・・・荒れているなと平野は考えた。軍人といっても、生活を抱えている以上は、それぞれの悩みがあるのだ。少尉候補生の頃は、仕事を覚えるのに懸命で、生活のことまでは気が回らなかった平野も、近頃では少し世帯じみた話しも分かるようになって来ていた。8月に入って出撃命令が下り、備品整備のため横須賀航空隊へ99艦爆を派遣することなったとき、平野は飛行長の出口大尉と相談して、母や弟妹と、出撃前の別れができようと考えたのである。
しかし、それが四国沖でエンジントラブルとなり、佐伯に引き返すとは、小川の奴も、運が悪いな・・・・。そう考えながら、平野は、小川の代わりに横須賀に派遣する艦爆を選定するため、先任搭乗員待機室の方へ歩いた。飛行場の東側は海で、その向こう側に桜島が見えた。桜島は海抜1113メートルであるが、海からそのまま火山が屹立しているので、壮大に見えた。この日は晴天で、午後の陽光が、桜島の赤茶えた山肌を露わにし、山頂からは、淡く立ち昇る蒸気の色が白く見えていた。先任搭乗員の石田兵曹と相談して、横須賀行きの代機を決めたところへ、通信室から電信員が走って来た。
「分隊士!小川兵曹の機が海上に不時着します」
「海上に?」
平野は急いで紙ばさみを受け取り、紙面に視線を走らせた。
「エンジン停止、海上に不時着す、足摺岬の北東20マイル」
平野は受信紙の紙をつかむと、ふたたび飛行長室に向かった。
「どうした、いかんか・・・。足摺岬から」
眉をしかめた栗田飛行長は、
「よし、雁ノ巣から来ていた水偵があったな、平野中尉、あれで救助に行ってくれい。それから。小松島にも応援を頼んでおこう」
と、次々に対策を打ち出した。平野は俄然、忙しくなって来た。衛生兵に救急箱を持たせる一方、水上機のパイロットを探した。飛行場近くの入り江に繋留してある94式水偵のパイロットは、平野と同期の近藤中尉であった。しかし、整備員の話しによると、
「近藤中尉は、エンジンのプラグをもらいに、鹿屋の航空技術廠に行っておられます」
と言うことである。
「そうか、仕方がない、おれが行こう」
平野は、衛生兵を連れると、自動車で水上機の入り江に急いだ。
「おい、エンジンの具合はどうだ。とべるか?」
水上機偵察員の国井兵曹に尋ねると、
「はあ、上空では少々バタつきますが、低空なら大丈夫だと思いますが・・・」
「そうか、おれが操縦する。国井兵曹は電信席に入ってくれい。偵察席には衛生兵を乗せる」
「分隊士大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、鹿島では2,3回やったことがある」
「そうですか?離水はええですが、太平洋の真ん中では、着水が危険ですけんね、気をつけてつかあさいよ」
国井兵曹は広島弁でそう言った。
「とにかく、行くぞ」
平野は、整備員に94式水偵のプロペラを回させると、まず中央のフロートに飛び乗り、ついで二枚羽の下の翼を掴んで操縦席に乗り込んだ。
「ようし、離水するぞ・・・」
ブルブルとプロペラを低回転させながら鹿児島湾のやや沖まで出ると、平野は機首を南に向けて、スロットルレバーを前に押した。風は南であるが弱く、風速は3,4メートルである。
全速の赤ブーストまで入れたが、水偵のフロートはなかなか水を離れない。陸上機と違って水上機は、水を切るところが難しいのだ。
「分隊士、思い切って、スティックを引いてみんしゃい!」
電信員席の国井兵曹が、一番後ろの席から、伝声管でそうヒントを与える。
・・・そうだな、もういい頃だな・・・。平野が、グイとスティックを手前に引くと、水偵は、驚いた馬のように、急に機首をあげてジャンプすると、ふたたび海面を叩き、またジャンプして、今度は傾きながら、水を切って浮かびあがった。
「分隊士!上々ですがな、水上機に転向したらどうです?」
「おだてるんじゃねえ、ゲタばきはきらいだ」
そう応対しながら、平野は左旋回して機首を北東に向けた。時速150ノットで1時間近く飛ぶと、足摺岬が前方に見えて来た。
平野は高度を2000から500に下げて、予定海面を捜索した。
「あ、分隊士、ブイが見えます!」
国井兵曹がめざとくブイを発見した。
赤白だんらんに染めた、不時着用の救命浮舟が、うねりにのって、揺れていた。
「よし、着水する・・・」
平野がさらに高度を下げにかかったとき、
「分隊士、1人しかいませんよ」
と、衛生兵の島田衛生長が不審気に言った。
「ふうむ、1人だな・・」
確かに、ブイの上で手を振っているのは1人で、不精髭を生やしている偵察員の田貫兵長らしい。
・・・操縦の小川兵曹はどうしたのかな・・・。
そう心配しながら、機首を風に立て、高度を下げて着水姿勢に入ると、うねりが大きいため、一度離水したフロートは、ひどくうねりを叩いて、機は大きくジャンプした。
「くそう!またか」
次は、うねりの間に落ち、フロートが激しく水を切って、海水が操縦席をざぶりと洗った。
・・・だからゲタばきはいやだというんだ・・・。
ゴーグルを外してマフラーで海水を拭くと、田貫の乗っているブイを探した。
「分隊士!あそこです。左前方!」
国井兵曹の声に、そちらを見ると、赤白だんらんのブイがうねりに乗って上下している。
「おーい、しっかりしろ!今行くぞ」
そう叫んだが、エンジンの爆音の方が大きかった。水偵がブイにタッチすると、田貫はまだ元気で、自力でフロートを踏み、飛行機の座席に這い上がって乗った。
「おい、小川兵曹はどうした?」
プロペラの音に掻き消されまいと大声を出した。
「機が沈んだとき、一緒に沈んだらしいです」
田貫は平野の耳に口をつけて叫んだ。顔に負傷して出血していた。
「ようし、すぐ傷の手当を受けろ。狭いが、偵察席に2人入ってくれい」
平野はそう言うと、伝声管をつかみ、
「国井兵曹、鹿児島基地宛、発信。われ、小川機ブイ発見。田貫兵曹を救助。唯今より帰投す」
「了解、ただちに発信します」
間もなく、伝声管を握った田貫に、平野は事情を訊いた。田貫は次のように報告した。
「足摺岬に近付いた頃から、エンジンがバタつきました。何とか、紀伊半島を越えて鈴鹿まで行きたいと考えたのですが、ブルブル、バタンと言い出したもんですから、小川兵曹と相談して、佐伯に引き返すことにして、電報を打ったです。ところが、反転して間もなく、エンジンがストップしてしまったもんで、不時着水したんです。脚がうねりに引っ掛かって、前方に転倒し、私は機外に放り出されて大分水を呑んで浮かび上がったんですが、そのとき、機は既に沈んでいて、私が着水前に投げたブイだけが浮かんでいて、小川兵曹は、どうしても浮かんで来ないのです。」
「ようし、離水する」
ふたたび、フロートで海面を叩きながら離水した平野は、念のため、5回ほどブイ周辺を旋回したが、うねりの間に人影は見えなかった。
機が足摺岬を通過し、南西に向かう頃、太陽はもうかなり、西に傾いていた。間もなく、阿蘇から霧島に至る南九州の山塊が、夕焼けの空に浮かび始めた。
「分隊士、急いだ方がええですぞ。暗くなると、着水が難しいですけんのう」
国井兵曹が心配そうに言った。
「分かっとる・・・」
平野はスロットルを押して、機速を170ノットに増速した。
やがて、桜島が見え始め、それは紫色のシルエットに変わりつつあった。鹿児島湾は夕凪であった。無事に着水すると、平野は実状を飛行長に報告した。
「ふうむ、小川は、機と運命を共にしたか・・・可哀想な事をしたな。出撃前に慰霊祭をやらにゃあいかんな、君、遺族に電報を打ってくれたまえ」
飛行長は、暗い表情を見せながら、そう言った後、
「君、鹿児島基地は戦地勤務になっているんだ。したがって、小川兵曹も殉職ではなくて、戦死となるからな。賜金や遺族年金も出撃前に手続きをすませておいてくれたまえ」とつけ加えた。
その後、勤務が終ると、平野中尉は、隊長の出口大尉と共に鹿児島市内の料亭に酒を呑みに出掛けた。横須賀航空隊から、小川兵曹の補充と予備機が到着し次第、「瑞鶴」は出撃する事になっていた。
後に、この事故が事件と変わって行く・・・つづく

