海をさ迷う幽霊船 2 | 世界珍ネタHunter!
マリー・セレスト号に積まれた1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったと分かったが、それ以外は無事で、6か月分の食料と水も残されていた。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つからなかった。最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置である。デイ・グラチア号の乗組員はメアリー・セレスト号をジブラルタルまで航行し、12月11日、マリー・セレスト号とデイ・グラシア号がジブラルタルに入港すると海事法廷が開かれた。判事は審理の中で彼らの勇気と技術を賞賛した。しかし、海事裁判所事務官のフレデリック・ソリー・フラッドは、デイ・グラチア号の乗組員に対して不正行為を疑い、海難救助の申請を事実上の裁判として扱った。イギリス側が、船長室のベッドの下で見つかった汚れた剣を証拠として、「酒に酔った乗組員が船長とその家族を殺害し、救命ボートで逃走したのだ」と主張したのに対し、アメリカ側は、「マリー・セレスト号にあったアルコールは、積み荷の原料アルコールのみで、飲料用のアルコール類は一切積んでいなかったし、もしも、積み荷の原料アルコールを飲んだりしたら、失明する恐れがあることぐらい乗組員なら誰でも知っていたはずであり、また、反乱を起こして逃げたのなら、私物を何もかも放り出したまま、慌てて逃げるのはおかしい」と主張したのは当然の事だった。仮に反乱を起こし船長一家を殺害したと仮定すると、船の乗っ取りに成功したのに急いで船を放棄して逃げる必要などない筈だし食料や水を十分に積載出来ない小型の救命ボートに乗って逃げるより、殺害した船長一家の遺体を水葬にした方が利口だと、船員ならすぐに考えつくだろう。よほど差し迫った危機でもない限り、漂流覚悟の救命ボートは使いたくないはずだ。結局、1873年3月、海事法廷は、この事件を原因不明の海難事故とし乗組員に船体と積荷の価格の15%に相当する賞金を与えはしたが、本来の額よりはかなり低かった。これは疑いがあるものの証明できない不正行為に対する罰として相殺されたためであった。ところが、それから10年ほど経った1884年、イギリスのドイルという医者が、マリー・セレスト号事件を題材にした短編小説、『J・ハバクック・ジェフソンの証言』を発表したのをきっかけに、既に世間から忘れ去られていた筈の失踪事件に対し様々な憶測が飛び交うようになった。
つづく・・・ 

