航空技術者の戦後 中村良夫戦後、38歳でホンダ技研に中途入社した中村良夫、中村は大正7年に山口県の医師の息子として生まれ実家は地主だった。昭和17年、東京帝大航空学科を卒業して中島飛行機に入社したが、ほどなくして応召、陸軍航空技術研究所、陸軍航空審査部をへて終戦を迎える。この間に陸軍や中島飛行機が開発する各種航空機用エンジンの設計にタッチするが、なかでも印象的だったのが、B-29 の2倍近い大きさで米本土爆撃を目的とする「富嶽」用の空冷36気筒エンジンの開発だったという。当時、世界でもドイツ、イギリス、アメリカ等を除いて実用化していなかったジェットエンジンの開発にも手掛けた。戦後はGHQによる「航空禁止」と財閥系の解体により中島飛行機株式会社が細かく解体された事で、職を失い同僚と共にモーターサイクルの製造販売を手掛けようとしたが失敗し、オート3輪の有力メーカーである日本内燃気製造(くるがね)で3輪車及び4輪の設計責任者として活躍するが、同社の業績悪化により解散し昭和33年、38歳でホンダ技研に中途採用された。当時の自動車、モーターサイクル用エンジン技術は、最先端技術で作り上げられた航空機用エンジンよりも20年以上も立ち遅れていた。余りにも格差が大き過ぎ「航空機用エンジンの技術レベルから、どの位レベルを落として設計すれば良いのかが航空機エンジン開発を手掛けていた技術者には解らなかったし、航空工業と比べて設計の水準が低レベル過ぎてガッカリしたとも言う。材質や部品点数等で生産コスト削減を求められる一般市販車では安易に技術転用出来ないのは当然といえたが、日本の自動車技術が戦前の航空機技術水準にまで追いついたのは、昭和40年代前半、中村らが取り組んで極限性能を追及したF-1マシンの頃だと言われている。但し、一般市販車の技術が追いついたのは更に10年も後だった。ホンダに入社後は初代の4輪設計課長として活躍するが、その一方で戦中に関わった「富嶽」の5000馬力エンジンや迎撃戦闘機「火龍」のジェットエンジン・ネ130等のような、いくら徹夜を続けても苦にならないような技術的大物には食い付く事は出来なかったと語っていた。昭和30年代頃、日本のトップメーカーであうトヨタや日産でさえも、きわめて水準の低い国内の自動車レースに甘んじて競い合っていた。自動車レースの最高峰であるF-1への参戦など、夢のまた夢と見られていた時代に中村は、航空機に代わる対象としてモータースポーツに強い関心を抱き、計画に具体性はなかったが、アメリカやヨーロッパで出版されている書籍を読み漁り、知識の吸収に務めていた。4輪車の生産すら殆ど実績のなかった宗一郎を口説き落とし賛同を得て参戦にこぎつけた。当時のF-1チームは現在の様な100人規模では無く、5、6人程度の非常にこぢんまりしたものだったが、中村はマシンの設計責任者兼マネージャー兼メカニックとして一人四役でチームの指揮を取っていた。開発段階に於いて、F-1に搭載するエンジンの冷却方式を巡って空冷と水冷とで宗一郎と中村は対立したが、中村は水冷エンジンで開発を進めたが宗一郎は自ら命令して徹底的にこだわった時代遅れの空冷エンジンを搭載したF-1マシンを強引にレースに参戦させマシンが炎上しドライバーが焼死してしまった。