
横空審査部の中で試作機のテストパイロットの経験があるのは高岡少佐だけだった事と何もまして、優れた技量が買われ橘花のテストバイロットに決定されたものであろう。橘花は通常量産機とは異なり試作と量産が並行して行われていた。当然機体の取扱いに関する取扱説明書等無く、しかも完成機体も無かった事から設計図を精査し考えられる問題点を洗い出した。要約するとその1は離陸補助ロケット「RATO」(rocket assisted take offの略)の推進軸の問題、その2はエンジン加速と低速時制御装置の点、その3は新採用のノーズギア(前輪式車輪)に対しステアリングの必要性(速度が速いとノーズシミー(共振)が起こり旋回が殆ど出来ない為にシミーダンパー(ステアリングダンパーと同類)の必要性、その4はブレーキの制動力不足であった。メインギアには零戦のタイヤを流用したもので、ドラムブレーキだった事から新規にディスクブレーキを装備出来る様に設計すには半年もの期間を要するとされた。タイヤ強度の不足も懸念され零戦の離陸速度が60ノット(111km)であるのに対し橘花では100ノット(185㎞)で改善を要する必要があったが改善させるには予定を大幅に変更させなければならず、已む無く改善はテストフライト後に行なう事とした。高岡少佐は当時の緊迫した戦況からして、100%中の80%の安全の見通しが立てば、生存出来る見込みがあるのなら残りの20%の危険性には目を瞑りこの条件を受託した。官房機密一〇九三訓令が発せられ木更津基地でのテストフライトが決定すると各種の準備が始まった。1号機は7月8日に動翼やエンジン等外せる部分は分解し梱包されトラックで木更津基地へ発送された。角大尉は整備の指揮を執り自らも地上で操縦桿を握ってしエンジンランナップを担当した。一技廠副部員和田中尉は7月27日、第一回の地上滑走試験を行いブレーキの焼入れやステアリングの方向性保持、ブレーキ制動の具合をチェックした。8月4日と5日の日中は雲が多く南西又は南の風が吹いた。翌6日には数機の米軍艦載機による基地攻撃を受けたが、幸いな事に橘花は掩体壕の中で無事であった。7日は朝から雲一つ無い快晴で絶好のテストフライト日和となった。整備員達の手で掩体壕の前に姿を現した橘花は、胴体に日の丸がクッキリと鮮やかで10時30分頃、第七駆動車によって起動したエンジンは快調であった。機は松林側である滑走路の北東端地点で、機首を南西に向け、午後一時に離陸準備が整った。

