ホンダ スーパーカブ 開発および製造立ち上げ | 世界珍ネタHunter!

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1950年代中期に至ると、初期ホンダの経営を支えた自転車後付け式のエンジンキットも同クラスの類似競合製品が増加し、カブも原動機付自転車業界の先行製品として安穏としていられる状況ではなくなりつつあった。又、戦後復興が進んだ日本の二輪車市場では、簡易な自転車補助エンジン車に不満足なユーザーから、富士重工業の「ラビット」、中日本重工業(のち三菱重工業)の「シルバーピジョン」に代表される125cc-250ccクラスの上級スクーターが、運転しやすさと性能面のゆとりによって支持を得るようになっていた。しかし、道路舗装率は未だ低く、スタイルに加えて馬力と扱い易さ、そしてなんと言っても耐久性と低価格が求められていた。舗装していない道路でもよく走り、荷物も沢山積めて丈夫で壊れず生活に則したバイクの需要が求められていた。藤沢武夫は、このような市場の趨勢をマネジメントの見地から考慮し、カブF型の後継モデルとなり得る廉価な実用オートバイを市場に送り出すことを考えた。そこで藤沢は「カブFのような自転車に取り付ける商品ではなく、50ccのボディの完成車が欲しい」と本田宗一郎に訴えたが、本田は当時「50cc完成車として乗れる性能の物は作れない」と一蹴していた。本田がようやく腰を上げたのは、本田と藤沢が視察のため欧州旅行に赴いた際のことである。当時長時間を要した旅客機での往路機中から、藤沢はかねて提案していた50cc級完成車の件を、またしても本田に持ちかけた。その熱心さに最初はうるさがっていた本田も、ようやく50cc車の件に関心を持ち始め、ヨーロッパでの道中、クライドラーやランブレッタなどの欧州製スクーター・モペッドでそれらしいものをみつけると「これはどうだ」と藤沢に尋ねるようになった。欧州製小型二輪を見ながら藤沢と問答を重ねるうち、本田は藤沢の求める商品性の高い新製品のイメージを膨らませるようになった。そのコンセプトからは、もはや従来のカブや、欧州製モペッドの多くのような自転車式のペダルは排除されていた。こうして欧州からの帰国後、本田の陣頭指揮により新型モペッドの開発が開始された。開発が始まると本田は「手の内に入るものを作れ」「使い勝手が良い物にせよ」「蕎麦屋の出前持ちが片手で運転出来る様にせよ」と良く言っていた。先ずエンジンの開発から進められたが、既に検討段階で水平エンジンのアイデアが固まっており、片手で運転出来る様に遠心クラッチとミッションは一体型にした。「蕎麦屋の出前が岡持ちを持って運転出来るように」と言う事で、ウインカーや各スイッチも右側に上下動作式の物が装備された。又、シフトペダルには雪駄でも変速操作可能な「かかと用の踏み返し」が付けられた。これはシーソーペダルと言う名が付いた。尚、このシーソーペダルだが、ロタリー式ミッションの為にギアポジションが判っていないと走行中にトップギアから一気に一速に減速してしまい、操作にはある一定の経験と慣れが必要とされた。現在に於いては出前機の普及と交通量が増えた事と道路交通法等から、片手で運転する事は非常に危険で在る為に開発コプセプトから片手運転可能化は削除されている。エンジンの開発時に於いては特に、要求された高い耐久性の高回転4ストロークエンジンと、変速を容易化するクラッチシステムの実用化のため、技術陣は苦心を重ねた。その結果、変速操作を容易にした自動遠心クラッチ式変速機と、50ccクラスでありながら既存の上位クラス排気量車にも比肩する高出力を絞り出せるエンジンが完成した。旅行から一年ほどの後、藤沢は本田から研究所へ呼び出された。自転車取り付け式エンジンでなく、足漕ぎペダルのないスマートなモペッドの模型とスペックを本田から示された藤沢は、その場で「これなら3万台は売れる」と述べた。本田や開発陣は「年間3万台か」とその見積もりのスケールに感嘆したが、藤沢は「月間で3万台」と真意を補足、一堂をさらに驚嘆させた。当時のホンダの主力商品だったホンダ・ドリームとホンダ・ベンリィを合わせても月産6,000から7,000台、さらに日本全国の二輪車販売台数が2万台程度だったため、藤沢の目算どおりであれば、競合メーカーの同級車種を圧倒するばかりか、市場そのものを一挙に押し広げてしまうことになる。藤沢がこの新型モペッド「スーパーカブ」の可能性をいかに高く評価していたかがうかがえる。この予見は事実となった。スーパーカブ発売から数年で、当時大小数十のメーカーが群雄割拠状態だった日本のオートバイ・スクーター市場からは、小型オートバイ・スクーターを生産していた中堅・零細のアッセンブリー・メーカーが一掃され、生き残った大手・中堅メーカーから相次いでスーパーカブ「もどき」の類似モペッドが現れた。「スーパーカブ月産3万台」を実現するため、藤沢の意見によって、鈴鹿工場が新たに建設された。過剰設備ではないかとの危惧は杞憂に終わり、工場はやがてフル稼働することになった。カブには発売当時の画期的な試みとしてレッグシールドやカバーなど随所のパーツに大型のプラスチック素材(ポリエステル)が使われ、軽量化や組み立て合理化に役立った。その陰には1954年(昭和29年)にホンダが鳴り物入りで大々的に発表しながら、商業的に大失敗したプラスチック・ボディの大型スクーター、ホンダ・ジュノオの存在があった。当時としては先進的な試みのモデルだったが、冷却不良や重量過大などの問題を抱え、売上不振により早々に生産中止となっていた。プラスチック素材の研究開発部門は直接的な製品開発からはずされており、開発陣の処遇を本田や藤沢は折に触れ気にかけていた。彼らの努力が結実し、スーパーカブが誕生した、と藤沢は述べている。


   


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