
昭和26年6月30日に石油類がそれ迄の配給制から自由に購入出来るようになったが、戦後から石油の自由化迄は、2サイクルエンジンを搭載した原動付き自転車が主流であった事からガソリンに松根油を混合した混合ガソリンが闇市で流通していた。因みに松根油は松の根を蒸留して作った物であり、ミルクを薄めた様な白く濁った液体であった。但しこの間々では揮発性が高くない為エンジンオイルとしか使用出来ず揮発性の高い燃料化するには脱酸と沸点300℃以下の脱酸油しなければならないが、当時闇市に出回った松根油との混合ガソリンは、松の根を蒸留しただけのオイルなのでカストロール(ヒマシ油)の様に酸化しやすかった。昭和26年7月には原動付自転車の運転免許がそれ迄の免許制から、警察署で講習で受講すれば誰でも許可が得られた事もあり、原動付自転車の需要が爆発的に高まった。スズキは市場での需要度の高まりに応えるべく翌27年には排気量36㏄のエンジンを搭載した原動付自転車 パワーフリー号を発表し販売した。販売されたパワーフリー号は、時代の流れに上手く乗って好調な売れ行きだった。昭和29年1月、鈴木道雄社長はかねてからの持論だった小型四輪車の研究、製造に踏み切ろうとしたが、当時の国民所得は依然低く、未だ四輪は時期早々と専務の鈴木俊三は反対し、オートバイの生産に主力を注ぐ事となる。昭和29年5月に90㏄の「コレダ CO」を開発販売、こうして本格的に自動二輪車の製造に乗り出し、社名も鈴木自動車工業と変更した。このコレダ COで再び富士登山レースに参加。前回と同じ山下林作が乗り86台の参加車を抑え、見事に優勝した。昭和30年4月1日に、原動付自転車は50㏄以下(第1種)と51㏄から125㏄迄(第2種)の2区分となった。其れまでの2サイクルと4サイクルとの区別が無くなると、当然の事ながら125㏄クラスに人気が集まって来た。そこで、4サイクルエンジンの125㏄「コレダ COX」を開発、販売した。しかし、2サイクルエンジンの方が、構造が簡素で製造コストが低く、トルクもありメカニカルトラブルによる故障が少ない利点から、スズキが2サイクルエンジンに拘る様になった。

