
日本楽器製造株式会社は、ピアノの製造に欠かせない木材を接着する技術が他社よりも突出していた事もあり、大正10年に陸軍の要請により、何層にも接着した積層材の航空機用木製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器を合併。しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、昭和13年には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。昭和19年11月には楽器類の生産は完全休止、12月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。戦後、戦災を免れた他工場や残った工作機械は軍需工場であった事から、進駐軍に接収されてしまうが、昭和28年には接収が解かれた。戦時中、社長であった川上嘉市に代わり、息子の川上源一が社長に就く事となった。工場を再開するにあたって、戦中金属プロペラの製造工程で使用した工作機械の有効利用にオートバイの生産を考え、密かに八幡町にあった日本楽器製造で研究開発を始め翌年の4月には、欧米諸国のオートバイメーカーの生産設備や量産車両の視察に技術部長の高井義朗と研究課長の小野俊らが出掛けた。西ドイツ・DKW(デーカーヴェー)社の代表的モーターサイクルRT125の2ストロークエンジンエンジンの構造がシンプルで信頼性も高く技術見本としては最適であり、しかもスリムで美しいシルエットも楽器作りから転身した技術者の意欲をかき立てるものだった。帰国後は早速、RT125をベースに試作に取り掛かった。RT125を忠実にコピーしながらも、「性能、デザイン、共にDKW RT125を超えるオートバイを作れ」が川上源一の至上命令だった。DKWが3速ミッションならヤマハは4速ミッションに。シリンダーの内径にも高精度を求めた。試作第一号車の設計製作は昭和29年3月に開始され5月31日には完成させるハイペースで進められた。8月には10台の試作車両を揃え浜名湖1万キロ耐久テストを経てから箱根山越えをして東京青年会館でYA-1の市場発表が行われた。車体のボディデザインは東京芸術大学の図案科に外注し、当時の定番カラーであった黒色単色とは異なりヤマハは競争馬の栗毛色にした。結果はDKWを超える性能とデザインで高い評価を受け「赤トンボ」の愛称を得た。ライラックの設計者高須修は「ヤマハの赤トンボは兎に角塗装が抜き出てた。あれは恐らくピアノの塗装技術を応用したのだろうね。当時、他社での塗装では錆止めを2,3回下塗りして仕上げ塗りだった。ところがヤマハは、下塗りに4,5回,仕上げ塗りも何回かやっていて他社よりも塗装工程が多いから家具のようにピカピカに仕上げてある。正直あれには関心した。日本楽器は戦後、楽器など作っても売れないから、一軒1000円バラックという、今で言うプレハブのようなものでしのいでいたんだ。木材は豊富に持っていたからね。だけど、あの赤トンボを見た時は、流石日本楽器だと思った。」と話された。しかし、世間は甘くはなかった。「楽器屋がオートバイを作ったか」と言って販売店は試乗さえもしてくれなかった。そこで、社長の川上源一は、知名度を高めるためにレースで他メーカーを打ち負かす事を考え、昭和30年7月10日に行われた第三回富士登山レースの125㏄クラスに出場する。日吉昇が「富士登山レースでは大暴れした」と言う通り、ヤマハチームが1位、3位、4位、6位、8位、9位を獲った。この時のホンダは2位と7位でスズキが10位に留まった。ヤマハはデビュー戦で他メーカー車を圧倒した。昭和30年7月1日は日本楽器製造からオートバイ生産部を分離独立させてヤマハ発動機を設立していた。

