来栖大尉の最後の出撃である昭和20年2月17日、関東地方攻撃に16日から初襲来したアメリカ海軍第58任務部隊の艦載機の迎撃に四式戦闘機「疾風」に搭乗して迎撃戦に参加し交戦の後に帰還し小型機1機の撃墜を報告した。事故が起きた2度目の迎撃時、自身の乗機である「疾風」が駐機している場所まで誘導路上を走っていたところ、疾風の手前の準備線に位置する、同じく迎撃の為に急発進した梅川亮三郎中尉操縦の一式戦闘機「隼」がタクシングを始め、既に基地上空には敵艦載機が乱舞しており、エプロン上の戦闘機は一斉始動し爆音が響き渡り大声で怒鳴っても何も聞こえなかった。梅川中尉が乗機する「隼」の前を上空を見つめながら飛行帽の顎ひもを両手で結びながら一刻も早く「疾風」に駆け寄ろうとして横切ってしまいプロペラに接触、頭を刎ねられ即死した。地上での接地体勢の「隼」の操縦席からは、来栖大尉は死角に入っていたため存在を確認する事ができなかったこともあり、幾ら操縦歴14年半の超ベテラン操縦者である梅川中尉であっても避けられなかった事故であり、落ち度が無かったとされ過失責任は不問に処された。事故直後、来栖の家族には、不慮の事故による死亡では気の毒だという陸軍の配慮もあって、「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが大本営の公式発表とされ、来栖少佐の戦死を報道する当時の新聞各社の記事や、戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっている。当時、来栖大尉が戦死した知らせを受け基地に駆け付けた父三郎は、全身を包帯で巻かれ、その変わり果てた姿で納棺された我が子の遺体に対面し声もなかった。父は死を深く哀しみ、そしてその死を誇りとさえ思わなければならない悲運に哭いたという。
息子の墓石には父来栖三郎によってロドトスの詩が刻まれた。
In peace, sons bury their fathers.
In war, fathers bury their sons. (Herodotus)
平和な時、死した父を息子が埋葬する。
戦火の中、死した息子を父が埋葬する。
来栖 良
大正8年1月8日生
昭和20年2月17日没
アメリカ出身
日本陸軍軍人
航技少佐
父、来栖三郎
母、アリス
長男
ニックネームは「ベア」
幼少時代をシカゴで過ごす
8歳の時、帰国
暁星中学
昭和12年 横浜高等工業学校機械科に入学
ラグビー部キャプテン
陸軍第八航空教育隊
昭和16年 陸軍航技見習士官に応募・合格
陸軍航空技術学校
第一航空技術研究所
熊谷陸軍飛行学校
航空審査部
飛行実験部戦闘機隊
昭和20年2月17日 福生飛行場で米艦載機迎撃のため急発進した一式戦闘機「隼」(梅川中尉操縦)のプロペラに接触し頭部損傷、即死
死後、大尉から少佐に昇進
