対潜哨戒機 東海 | 世界珍ネタHunter!

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昭和19年以降に入ると南方の制空権、制海権を共に失い始めタンカーでの還送量が前年の半分近く迄落ち込み昭和20年に入ると南方との海上交通路は敵潜水艦による海上交通路の遮断が顕著になり、タンカーの撃沈被害が増大し還送量は0となり危機的な状況であった。昭和16年12月に措ける保有タンカーは510,464トン(運航可能なものの総トン数)であったのに対し、昭和20年8月付時点の保有タンカーは僅かに101,196トンでしかなかった。海軍はこう言った状況に陥る以前の昭和17年、今後の海上輸送護衛に必要な対潜哨戒機の試作を九州飛行機に命じた。海軍では昭和13年に愛知に対し近距離哨戒機の試作を命じていたが、昭和15年の試験飛行の結果、多くの改良が必要となり実用に供するには難しい事から練習機として使用され、対潜哨戒は従来通り97艦攻と96陸攻の両機が運用されていたが、太平洋戦争が始まると、米潜水艦の威力が本土近海にも及ぶようになり、本格的対潜捜索と攻撃能力を備えた対潜哨戒機の必要に迫られた。海軍が九州飛行機に命じた試作機、17試哨戒機(Q1W1)の性能要求は特殊なものであり、巡航速度は出来るだけ低速で、航続距離は長く且つ、発見した潜水艦を急降下爆撃で撃沈出来る事であった。九州飛行機では設計主務者を野尻康三技師として、次の要領を満たすよう設計を開始した。哨戒速度70ノット(130km/h)、哨戒航続時間は10時間、これを可能にするため双発機とする、哨戒高度800m、潜水艦発見時にはそのまま直進、急降下に入り爆撃可能なこと、すなわち高度800mから70度の角度で急降下、高度300mで爆弾投下、沈下150m以内で海面上150mで引き起こし上昇可能なこと。
昭和18年12月、前例のない特殊な用途の機体であったため、設計、試作に日時を費やしたが、長時間運転には信頼性の高い日立の発動機「天風」31型の採用などで漸く、1号機の完成を見た。完成した機体は、下方視界を重視したため機首が特異な形状となり、また攻撃時の急降下、引き起こしを楽にするため、0度から90度まで自由に操作できる特殊なフラップ(ダイブブレーキ)が付けられていた。海軍での試験飛行では尾部フラッターの問題が生じ、九州飛行機では問題点の改善の為に生産が滞り、「東海」11型として制式採用されたのは昭和20年になり既に南方との制海圏及び制空圏を失った状況下では、低速で弱武装の対潜哨戒機を実戦で単独運用する事は難しく海上交通路は敵潜水艦と空母によって海上輸送護衛の時期を失しってしまった。後1年早く完成していたら、大きな戦果を挙げていただろうと惜しまれ、一般には余り知られずに消えていった名機である。製作所 九州飛行機。 生産機数 153機。


先日の衝撃降下90°で思い出した機体だが、個人的には印象のあるエピソードがある。もうかなり昔の事ではあるが、当時学生であり気象学の講師として石崎氏が招聘され講義を受講していた。難しい講義で些かウンザリ気味だったが昼休みの休み時間、偶々席を同席する事となった。戦中の話になり零式水上偵察機のパイロットでソロモン諸島では、グラマンF6F戦闘機に機体を蜂の巣にされながらも帰還した事、その後陸上機のパイロットに転身して対潜哨戒機「東海」のテストパイロットになった事も話された。対潜哨戒機の試験飛行では、ダイブブレーキを開き垂直降下ダイブを行った際に乱流が生じてそれが水平尾翼に当たり強い尾翼フラッターを生じ機体の引き起こし操作が出来ずに「この間々では引き起こし操作出来ずに死んでしまう!」と一瞬思ったらしいが、ダイブブレーキを開いて尾翼フラッターを生じたのなら、閉じれば良いと閃きすぐさまダイブブレーキを閉じたら嘘の様にフラッター振動で制御不能だった機体があっさりと回復してしまったと言う。「あの時、閃かなかったら今此処には居ないでしょうな。」って言ってた氏の言葉が印象的だった。







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