ヒューズ H-4 ハーキュリーズ | 世界珍ネタHunter!

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1940年の第二次大戦当時、大西洋ではドイツ海軍のUボートにより同年の7月の1ヶ月だけでも20万トンの輸送船が撃沈される状況を憂慮した造船業界でリバティ船の開発に成功していたヘンリー・カイザーは、まず輸送船をベースとした簡易な空母「ベビー・キャリアー」を製造し、船団の護衛に使用することを提案し、実際に発注を受けた。さらに、空を飛んでしまえばUボートの攻撃を受ける心配はないと考え、船による輸送から空輸に切り替えることを検討した。ただし、当時大西洋を横断できる護衛戦闘機は存在せず、洋上で航空機から攻撃を受ければ無防備になることは必定であった。また当時の輸送機では可載量が少なく、滑走路が短かったことから、離水距離に制限のない飛行艇を大型輸送機として製造することを考えた。カイザーからの提案を受けた軍部や航空関係者は、否定的な見解を示した。確かにカイザーの指摘する様に輸送力の確保は必要であるが、戦闘機や爆撃機の増産が最重要な課題で、更に飛行艇を生産していたマーティン社では1942年7月3日に初飛行させたマーティン JRM(マーズ)を5000機もの大量生産を行う為に他へ人員を振り向ける余裕はなかったことや、造船所で航空機の生産を可能とするのには相応の時間を要することもあり、何よりも200トンや500トンもの大型飛行艇については、夢物語に過ぎないと考えられた。戦時下において軍用機の大量生産を急ピッチで行なっている状況下ではそのような余裕はどのメーカーにもなく、カイザーの依頼はどのメーカーからも断られる事となったが、この時期のハワード・ヒューズの運営する航空機製造会社であるヒューズ社は、双発爆撃機であるD-2が製造段階に入っており、余裕があったことから、ヒューズ社にいた航空技術者であるグレン・オデカークは「カイザーの飛行艇はどうか」とヒューズに進言していた。当初、ヒューズはこの大型飛行艇には否定的であったといわれているが、ヒューズ社ではD-2を製造していたものの、この機体が陸軍に採用されるかどうかはまだ決まっておらず、もし不採用となった場合はヒューズ社の業務はなくなる。単に業務を維持するだけであれば、他社の下請けなどを受注することも出来たが、ヒューズの性格から考えて、世間が驚くものである必要があった。そもそも、ヒューズ社はヒューズが自分の飛行機を作らせるために設立した会社で、金儲けのために設立した会社ではなかったため、従業員の仕事が確保されれば構わないと考えられた。1942年8月にカイザーはヒューズと相談した上で、開発をヒューズが行なった上で量産化はカイザーが担当することになり、同年10月までに計画案と図面・仕様書を全て提出し、同年11月16日に正式契約となった。機体の開発に当たり機体構造材に対して金属の使用は不可とされた。前述の通り、軍部としてはHK-1の計画に反対であったことや、この飛行艇1機で戦闘機100機分のアルミニウム合金が消費されることになるため、もしも飛行艇が大量生産される様になれば航空機の主要材料であるアルミニウム合金の供給不足が懸念されたためであるが、軍部が望む航空機であればこのような条件は課せられなかったと推測されている。全木製とするという条件が課せられていたが、全木製であっても、適切に設計すればデ・ハビランド・モスキートやロッキード・ヴェガのような高性能機を作成することも出来たが、当時のアメリカ国内には木製の航空機に通じた技術者は少なく、設計の参考になるデータも少なかった。又、当時の木製構造にはフェノール樹脂接着剤が主流だったことから参考書には「総重量7.3トン以上の飛行機には機体構造上接着強度不足の可能性から木は使うべきではない」とも書かれていた。ヒューズ社では、爆撃機D-2の製造において、デュラモールド(薄い木の板を合成樹脂で張り合わせた合板)に通じてはいたものの、そのままHK-1に適用できるものではなかった。
1943年後半になると、今まで開発経験の無い全木製構造から開発の遅れは誰の目にも明らかになった。この頃にはアルミニウム合金の供給体制も安定しており、開発がスタートした頃の懸念は解消されていたことから、主翼を金属製に変更してはどうかという意見もあった。しかし、その時点で金属製の主翼に変更することは更なる開発の遅延を招き、また金属製の主翼は木製よりも軽くできることはないとヒューズが考えたので、この意見は採用されなかった。一方で陸軍は、ヒューズ社のような小規模なメーカーが2つの航空機を同時に開発するのは無理だと判断し、国防工場公社に圧力をかけた。国防工場公社ではヒューズとカイザーに弁明の機会を与えたものの、1944年2月16日に作業を中止するように通告した。これに対して、ヒューズはワシントンに行き、政権各方面に開発続行を働きかけた。民主党のジェシー・ジョーンズが大統領に開発続行を進言し、大統領がこれを認めたことで、一旦契約を破棄した上で新規に契約を結ぶことになり、開発は続行されることになった。この時に、ヒューズの仕事の進め方に不満を持っていたカイザーは、HK-1にはもう量産の見込みがなくなっていたことも認識していたのでこの契約からは外れ、新規の契約ではヒューズ社との単独契約となった。また、当初の契約金額である1800万ドルを超過した場合は、ヒューズが負担することになった。色々と製作に難儀し長期間を要したハーキュリーズもようやく完成の目処が立ち始めたのは、第二次大戦も終結した翌年の1946年6月だった。工場からロングビーチ湾のターミナル島に設けたドックに移動、最終組立を行うことになった。ドックまでの移動では、邪魔になる樹木や電柱などは一旦除去され、通過後に再度植えなおす措置がとられたが、取り除く必要のある電線は2300本に達した。また、この移動を見物した人は10万人に上った。近隣の学校は休みとして、この巨大な飛行艇の移動を見物できるようにした。機体に主翼や尾翼が取り付けられ、エンジンが装備されても、操縦システムや油圧・電気系統などの調整には時間を要し一行に機体が完成しないため、世間では「飛べないのではないか」と噂された。同年11月1日、ドックに水が入れられてハーキュリーズはその機体を水面に浮かべられ、漸くハーキュリーズは完成した。翌日には、最初で最後の飛行テストが行われ飛行テストを行なわなくなった後も、ハーキュリーズはヒューズによって、誰の目にも触れさせずに保管されていた。







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