№5 スバル360昭和33年3月3日に発表された当時、専門家の間では、「従来の軽自動車の概念を破る車」との高い評価を受けたスバル360だったが、売れ行きは今一つ結びつかなかった。その原因の一つは42万5千円と言う価格が当時の庶民にとって割高に感じた為だった。価格について百瀬は次の様に述べていた。「当時、スクーターが8万円ならば普及すると言われてました。2人乗りで16万円ならば、4人乗り乗用車は4×8万で32万になる。だが、32万円はとても無理としても、何とか40万円は切りたかった。」発売当時は、未だ軽自動車市場そのものが存在していなかった為、富士重工では販売台数の予測が立たず、採算性を考慮して42万5千円という価格に設定せざるを得なかった。他社にとっても富士重工のスバル360の販売は、未開拓の軽自動車市場で量産が成立するかどうかの試金石だったと言える。軽自動車市場の動向を見つめていた他社が昭和35年以降になると新規参入の自動車メーカーが続々と参入する様になった。昭和35年にはマツダR360クーペ、昭和37年マツダ・キャロル360、スズキ・スズライト360、スズライト・フロンテ360、三菱ミニカ、昭和41年ダイハツ・フェロー、昭和42年ホンダN360、スズキ・フロンテ360等の車種が続々と登場した。スバル360は、ライバル車が続々と登場しても販売台数も減少されることなく、比較されることによってかえってその優位性が聡明され、逆に売れ行きを急上昇させていった。昭和33年には385台、翌年には5870台、昭和36には1万台の大台を突破し2万台に迫る勢いであった。量産効果により価格も下がり、昭和36年9月にはSTD仕様車で計画値の販売価格の32万に近い36万5千円に迄引き下げられた。その後も順調な売れ行きを示すスバル360によって、富士重工はかっての「航空機メーカー」から自動車メーカーへと変身を遂げた。又、スバル360は12年間一切モデルチェンジを行う事なく販売を続け、その面で日本最長記録を作った。現在であっても同一モデルのカラーバリエーションを増やしたり装備品を変更して付加価値を上げ購買層の所有欲を刺激する手法を取るが、マイナーチェンジやモデルチェンジなのを一切行わなかったスバル360がいかに普遍性を持っていたかと言える。所で、スバル360が発表された時、新聞や雑誌は「中島飛行機が作った乗用車」「航空技術が生み出した車」と言った取り上げ方をした。専門家から見ても、従来の常識を破る居住性、軽量化、性能を実現した事に対する素直な驚きがあり、その要因を、常に極限設計する航空機設計の思想に求めたのは無理も無い事だった。一方の富士重工にとってもトヨタ、日産等の先発自動車メーカーの一角に食い込もうとする意味では、他社との特色の違いを打ち出す必要があった。その点で評論家達からの「航空技術の結晶」とする受け取られ方は、技術の優位性を消費者にアピールし、印象づける上でも、欠してマイナスに働くものではなかった。こんなエピソードがある。K10の耐久、走行試験も終盤に近付いた頃だった。かって中島飛行機でエンジン設計をしていた冨士精密の中川良一の所に、日本興業銀行にいた友人の部長から電話があった。「こんなこといえた義理ではないのですが、今度うちで360ccの軽乗用車をつくりました。そちらにもっていきたと思いますので、ぜひ試しに乗っていただいいて、どんな具合か診断していただけませんか?」かっての仲間同士、あるいは車づくりの先輩として、率直な意見を聞きたいとする気持ちからだった。とは言え、競争相手の富士重工がつくった試作車に、プリンスの人間が仕事中に乗るわけにもいかない。「それじゃ、定時間後、荻窪工場の門の前で待ってますので、よろしく。」ということで合同試乗会となった。冨士精密の中川良一と田中次郎、富士重工から2人の計4人で、青梅街道から甲州街道に出て、高尾を経由して相模湖までの約50キロほどの走った。その夜、中川らは興銀の部長らにご馳走になりながら、車談義に花が咲いた。中川は主にエンジンについて、田中は全体について、スバル360の感想を述べた。「全体としてよくできているので、きっと一般に受け入れられるだろう。しかし、横風がくるとフワーっととられがちになる。この点はまずい。」競争相手の技術者を、未だ発表前の試作車に乗せて、評価してもらう。こんな信じられないような事が、当時にはあったのであった。又、自動車技術会の「遠乗り会」で百瀬は東大航空学科の先輩にあたるトヨタの長谷川と東大教授の垣理厚の2人を誘ってスバル360に乗り飲みに出掛けて帰りに川原の石だけけの凸凹した場所を長谷川が下駄履きで運転して走り試乗し技術的な評価をした。全体的には評価が高かったが、、一つだけ、こんな評価をした。「製造上の問題で、みぎりの線がいま少しどうかと思う。」みぎりとは、外板を分割する繋ぎ目の線の事である。長谷川に指摘された事に対し百瀬は「あとで考えてみると、確かに長谷川さんが指摘されたとおりなんです。うしろのほうは良いが、前のほうはプレスの絞りが深すぎる為、プレスの方向が難しいですよ。」長谷川は設計者自身も気付かなかった点を、的確に指摘したのであった。 完