昭和61年7月27日、間もなく太陽は直上に達しようとしている。外気温度計は32℃を指してしるが、サーキットのアスファルトは地表の照り返しを受けて、恐らく40℃を超えてるに違わない。その陽炎の中に、皮つなぎに身を固めた62人のライダーが見構える。予選のラップタイム順に、コース上のポールポジションから最後尾までえんえんと並んでいる。ライダー達の向かい、コースを挟んだ反対側のピット前には、やはり等間隔で各々のマシンが並んでいる。タンクからの燃料の気化を防ぐ為に、その上には重石の様にビニール袋入りの氷が置かれている。その水滴がフレームを伝わって路面に落ちる。
午前11時30分 シグナルが青に変わる。
ライダー達が一斉にコースを横切り、自分が乗るマシンに殺到し飛び乗る。セルが回りマシンを押さえていたセカンドライダーが手を放す。豪快なサウンドを残しマシンは、次の瞬間コースへ飛び出して行く。吉村秀雄はこの年で64歳になっていた。昭和53年の第1回レース。世界耐久選手権シリーズを連戦連勝し、その余勢を駆ってレースに挑んだ常勝ホンダだったが、勝利したのは当時アメリカでの活動を中心としていた吉村率いる「チーム ヨシムラ」だった。当時の事を吉村は、次の様に回想する。
「とにかく参加しようと思いました。日本のファンに忘れられたくないという一念でした。メーカーのように耐久タイプのマシンを用意する時間がなくて、アメリカのハイウェイを大排気量で悠然と走るスーパーバイクをそのまま出しちゃったんです。」コースを疾走するファクトリーマシン群の中に場違い的な感じのマシンがトップを走り続けた。燃料タンクはレーサーらしからぬ大型の物。ハンドルもセミアップハンの市販品をその間々装着しただけ、マシンのカラーリングにしてもファクトリーマシンと比べてしまったらお世辞にも上品とはいえない。その赤と黒のマシンがコースの周回を重ね、世界耐久選手権シリーズで常勝を誇ったホンダRCBは、その後塵を拝しただけだった。レースが終盤に近付くにつれ、メインスタンド上段の記者席から大会本部に質問が飛ぶ。「ヨシムラの此れまでの戦績を教えてくれ!」だか、伝えたくても大会本部にはヨシムラに関する資料すら無かった。チェッカーフラッグに向かって突っ走るその1周毎に、ヨシムラの新しい歴史が刻まれ始めていた。
次回につづく