台湾に点在する新竹、宜蘭、高雄等の各基地で、エプロンで待機中の輸送機の窓越しに、あるには滑走路の脇で、自分達の予科練の後輩に当たる若者達が特攻隊として出撃して行く姿を帽子を振って見送ってきた。自分とはさして年齢の変わらない。自分は徴用の輸送機隊として危険と背中合わせでありつつも、帰る基地を持っていた。しかし彼らには、生きながらにして即定の「死」しかない。「後ろめたさがなかったと言えば嘘になります。僕達も与えられた仕事を100%以上こなしているという自負はありましたが、彼らと自分達を同列に置く事は出来ませんでした。」吉村の言葉には、中佐の提案を断わり切れない当時の2人の屈折した心理が覗いていた。
戦後、吉村が秋川市内にあった工場をたたみ、アメリカに活動の拠点を求めたのは、少なからず戦争での体験から日本に失望していたのであろう。「戦後のある時期、日本が嫌いになっていたのは確かなんですから。戦争を始める前と、それが終った後の落差が激しすぎたからですからね。価値観が変わるのは当り前としても、人間までが手の平を返すように変わってしまったんですから。例えば特攻隊です。昨日までは神様だったものが一日で評価が逆転したったわけでしょう。司令部にいた参謀なんかが当時の苦悩を本なんかに纏める。そうすると、その人達は本の中で言い訳をしてるだけなんですよね。死んだ奴らは口なしです。ただの犬死になってしまう。なんで死んだのかと、その反省なんかどこにもなくて、批判する人間と賛美する人間しかいないわけです。それが、上から下まで全てそのパターン。嫌になりましたね。でも、日本を出たのはそれが理由だけじゃないですよ。あの頃の日本は二輪を認めてくれませんでしたからね。僕にはアメリカしか拠点がなかったと言う点もあるんです。」吉村は戦後、タバコも酒もやらなかった。戦中に一生分の酒を飲み干してしまったと言う。
次回出撃編と続く・・・