№2 吉村秀雄と爆撃機「銀河」 フィリピン救出編 | 世界珍ネタHunter!
「昭和18年の途中からは惨めな事になりました。なにしろ、南方の貴重な資源が手に入る最後の中継地(シンガポール)でしたから便数が物凄く増え、その分危険も増したんです。敵の戦闘機に食いつかれ、雲の中をあっちこっち逃げ回るなんてしゅっ中でした。ジャカルタやスラバヤからゴムやスズを積めるだけ積んで、シンガポール迄持って来た事もありました。でも、日本の輸送船は壊滅状態でしたからそこから先へは運べないんです。結局、マニラや台湾を基地にする他の徴用飛行機隊が中継して内地まで持っていくんですが、飛行機ですからね微々たるものでした。」当時のフライトログには一日おきの間隔でシンガポール、ジャカルタあるいは海南島を経由して台北、さらにそこから福岡へと飛行していた事が記載されている。海軍に徴用された大日本航空は、物資等の輸送業務だけに従事していたわけではない。マニラを基地とした第三徴用輸送機隊は、本土との連絡業務の間に敵情報の把握にも協力し、兵員、兵器のピストン輸送をこなしていた。しかし、輸送機の被害も多く敵の空襲により地上で輸送機を失った乗員達は撤退する日本軍と共にし、多くの犠牲を出しながらルソン島北端のエチアゲ地区に追い詰められていた。昭和19年12月31日、台北支社にいた吉村にエチアゲのツゲガラオ基地に集結した輸送機の乗員達の救出命令が本社から下された。「台北を出発したのは夕方です。操縦は予科練の先輩でもある江川さんでした。フィリピンに近付くと海面スレスレに降り、地上からの合図を待ってました。」基地に接近した零式輸送機の爆音に応えるかのように、滑走路に松明が灯されていった。救出機は素早く着陸しプロペラを回した間々乗機を失い避難してきた乗員達が乗り込むのを待った。タラップを登りようやく座席に腰掛けた乗員達の月明かりの中で見た表情が吉村の記憶の中で忘れられないという。ボサボサの髪、こけた頬、そして全身から立ち上る異臭、生気を失っていた目に生還への喜びが宿ったのは、滑走路を離陸して大分たってからだった。
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