ホンダ RC141 昭和29年3月20日に世界最高峰のマン島TTレースに参戦する事を名言していたが、その後、浅間山で開催された第1回耐久レースとそれに続く第2回レース共にレースに優勝出来なかった歯痒さから、本田宗一郎氏はイライラを周囲に当り散らしていた。当時本田技研技術研究所の初代所長で在った工藤義人氏の「いままでの二輪車のやり方では駄目です。戦前の航空エンジンのセンスを持ち込まないと···。」本田氏も同感だった様で「これからのレース用のオートバイ·エンジンは、航空機と同じようでなければならん。細かいところまで精密につくって、仕上げは丁寧でなければいかん。誰か航空エンジンを知っていて、レースに勝てるよう二輪車を調整できる奴は居ないのか?」との社長からの言葉を受けて工藤氏は、中島飛行機でエンジンの試作を担当していた関口久一氏を招聘した。マン島レース参戦時はチーフメカを務め後にF1でもチーフメカと監督を務める事となった。戦中、中島飛行機にて誉エンジンの開発を担当した中川良一氏も「エンジンのベンチテストでは抜群のセンスを持ちエンジン音を聞いただけで良し悪しが判り、エンジンチューンは絶妙だった。精密で微妙な「誉」がトラブった時等は良く彼に助けられた。」との中川良一氏の言葉にある通り、名チューナーだった。戦前からエンジン一筋に叩き上げてきた抜群のセンスと勘を持つ職人的技術者であり、コンピューターや電子制御に頼らない時代のレーシングカーにかけては、スーパー・メカニックと呼ばれた人物である。技術研究所の技術者を中島飛行機出身者の技術者で固めて行き、社長のマン島レース出場宣言から5年後に参戦を果たし、初出場ながらにして入賞を果たし6位から10位迄を独占した。翌年にはヨーロッパの強豪を抑えて優勝を果たした要因が、戦前の航空エンジンの技術をふんだんに取り入れた高回転、高出力エンジンと加えて航空エンジンでつちかったチューニング技術があった事は明らかだった。