返す
連休中は買い物をした。
食器に続いて、小物、日常雑貨、服などたくさん買い物をした。
一緒につき合ってくれたのはmixiで知り合った人と、以前一緒に部屋でビデオを見て泣き言を聴いてくれた人。
捨てる行為は気持ちがいい。
そして、それに変わるものを一新して補充する行為も気持ちがいい。部屋の中の些細なところが次第に変化していって、いつの間にか自分一人の空間に変わっていく。
前の彼女から借りたものはそのまましまっておいた、と以前の日記に書いたけれど、買った品物を部屋に置き、さらに服や本、CDを捨て選別していく間に、借りたものは返そうと思った。
こういう時に綺麗に梱包できればいいのだろけれど自分は器用ではないので、ショップでもらったビニール袋に文庫本、DVD、CDを入れてテープでとめた。
翌朝出勤しメールをした。
借りたものを返したいので週末に10分程度そちらの近所の喫茶店で会おうと。返信は、わたしもいろいろ返すものがあるので、途中の駅で会おうと。
4月には、以前二人で見に行っていたミュージシャンのライブがある。俺はチケットを取るが君はどうする、と聴くと、私も行きたいと思っているということだった。
そして土曜日に会うことになった。何ヶ月ぶりとかもうあまり覚えていないし考えようともしない。
一切気負いなく、と言えば嘘になるが、フラットに近い気持ちでメールができた。借りたものを返し合うという行為で別れに一つのけじめがつけられる。その上でまた同じライブを見にいくことができて、今回もかっこよかったな、と言いながらお茶ができれば、それはやはり友達、と呼べるんじゃないだろうか。
こういうメールが送れるようになった背景には、やっぱり先日買い物につき合い、今の自分と同じような状態にある女性の存在がある。彼女は週末部屋に来ることになっている。
吊り橋の上で傷をなめ合うのではなく、趣味の合う友達としてつきあって、それで自分のことを好きになったらそう伝える、と言ってくれた。その人の言葉やメールは前の彼女とは異なり、能弁で、強くて弱い。
自分がその人を好きなのかどうかは分からない。
それこそ、傷を埋め合う相手が見つかった安堵感に過ぎないのかもしれない。その安堵感は、向こうも同じかもしれない。
けれども、こうやって知らない人間同士が出会って、結びついて、友達になって、恋人になって、破綻して、結婚して、時には死んだりもする。
諦観ではない、最終的には自分は一人なのだという認識を、言葉ではなく身体と心を持って実感するには、上記のようなプロセスが必ず必要なのだ。その意味で、今自分は自分を本当の意味で構築しつつあるように思う。たとえそれが酒や薬や異性への依存を含めた構築であったとしても。
一度壊れたものをもう一度同じように築けるほど、人間は強くもないし馬鹿でもないはずだから。
食器に続いて、小物、日常雑貨、服などたくさん買い物をした。
一緒につき合ってくれたのはmixiで知り合った人と、以前一緒に部屋でビデオを見て泣き言を聴いてくれた人。
捨てる行為は気持ちがいい。
そして、それに変わるものを一新して補充する行為も気持ちがいい。部屋の中の些細なところが次第に変化していって、いつの間にか自分一人の空間に変わっていく。
前の彼女から借りたものはそのまましまっておいた、と以前の日記に書いたけれど、買った品物を部屋に置き、さらに服や本、CDを捨て選別していく間に、借りたものは返そうと思った。
こういう時に綺麗に梱包できればいいのだろけれど自分は器用ではないので、ショップでもらったビニール袋に文庫本、DVD、CDを入れてテープでとめた。
翌朝出勤しメールをした。
借りたものを返したいので週末に10分程度そちらの近所の喫茶店で会おうと。返信は、わたしもいろいろ返すものがあるので、途中の駅で会おうと。
4月には、以前二人で見に行っていたミュージシャンのライブがある。俺はチケットを取るが君はどうする、と聴くと、私も行きたいと思っているということだった。
そして土曜日に会うことになった。何ヶ月ぶりとかもうあまり覚えていないし考えようともしない。
一切気負いなく、と言えば嘘になるが、フラットに近い気持ちでメールができた。借りたものを返し合うという行為で別れに一つのけじめがつけられる。その上でまた同じライブを見にいくことができて、今回もかっこよかったな、と言いながらお茶ができれば、それはやはり友達、と呼べるんじゃないだろうか。
こういうメールが送れるようになった背景には、やっぱり先日買い物につき合い、今の自分と同じような状態にある女性の存在がある。彼女は週末部屋に来ることになっている。
吊り橋の上で傷をなめ合うのではなく、趣味の合う友達としてつきあって、それで自分のことを好きになったらそう伝える、と言ってくれた。その人の言葉やメールは前の彼女とは異なり、能弁で、強くて弱い。
自分がその人を好きなのかどうかは分からない。
それこそ、傷を埋め合う相手が見つかった安堵感に過ぎないのかもしれない。その安堵感は、向こうも同じかもしれない。
けれども、こうやって知らない人間同士が出会って、結びついて、友達になって、恋人になって、破綻して、結婚して、時には死んだりもする。
諦観ではない、最終的には自分は一人なのだという認識を、言葉ではなく身体と心を持って実感するには、上記のようなプロセスが必ず必要なのだ。その意味で、今自分は自分を本当の意味で構築しつつあるように思う。たとえそれが酒や薬や異性への依存を含めた構築であったとしても。
一度壊れたものをもう一度同じように築けるほど、人間は強くもないし馬鹿でもないはずだから。