週末 | 木のうろ

週末



金曜日に思い立ち、それまで使っていた食器、いらない服、漫画、本などをどんどん捨て新しい食器を仕事帰りに買い込んでタクシーで帰った。
毎週末にやってきては一緒にご飯を食べた食器は用はないし見たくもない。
ボディタオルも全部とりかえた。すっきりした。

昔やっていたハウス世界名作アニメ劇場の上映会をしよう、という話で、
先日渋谷で自分の話を聞き、頭を抱いてくれた友達がわざわざ横浜からやって来てくれた。俺自身に対する親切心もあるのだろうし、純粋にその映像が見たいというのもあるのだろう。どちらか一方だけではないと分かるのが救いだし、分かりやすいのが友達のいいところだ。

チャイを煎れてあげようと言うので、久しぶりに池袋の町中を歩き、漫画を買い、スパイスを探す。休日に街に出るのも久々だし、女の子と昼間町を歩くのも久しぶりだった。その時は楽しかった。

家に帰って茶を飲み、酒を飲み、キムチ鍋をつくって映像を見、自分はいつのまにか眠ってしまっていた。

隣に敷いたふとんで寝ている友達を起こさないように朝ご飯の支度をし、薬をビールで飲んで二度寝した。起きたのは十時半だった。

それから二人でぼけっとして、コーヒーを飲み、ご飯をたべ、日曜の昼のテレビをぼんやり見て婦人雑誌をネタにバカ話なんかをして、また昨日の映像の続きを見始めた。


映像を見ながらやっぱり発作が来た。
すまないが手を握っててくれないか、とお願いして、友達に手を握ってもらって、泣きながらいろいろ話した。
居心地の違和感はあって当然だ。
自分は友達にすがりたい一心で家に呼んだ。
ふとんで寝ている彼女にご飯だよといって起こすのも、一緒のふとんで眠るのもそれはもう生活だったから。
友達に頼むことじゃない、本当は手を握ってくれないかじゃなく、ぎゅっと抱きしめさせてくれないかと頼みたかった。

もし彼女とまた新しくつきあうことができるとするなら、それは俺自身も彼女自身も内的な変化があって、そこで過去の出来事を「ああ、そういえばそんなこともあったな」みたいなレベルの認識にすることができて、互いが互いの生活を持って初めて、新しい男と女として見ることができるんだろう。
だから自分自身のために自分を使うべきなんだと、何度も書くし何度も思う。

手を握ってくれた友達は、自分からつき合ってくれと頼んで結局自分から別れて、ふっきるまで三年かかったといった。それは、もう友達が、相手の顔もみたくない、というような喧嘩別れだったそうだ。

そういう終了の仕方もある。
他に好きな人ができたという終わり方もある。
異性として見られなくなったから終わりにしよう、というのは、
どれくらい一般的な別れなんだろう。

別れよう、というまで、相手の人はそれだけ考えたんだよね。
その一人で考えた時間の分だけ、**さんより、一人の時間に慣れる速度は速いはず。**さんも彼女が先んじた時間の分だけ遅れて、一人の時間に慣れる
ようになるよ、と友達は言った。

睡眠薬と安定剤を一錠づつ多めに飲んだ。
八時半には眠れた。

別れてからの彼女の動向は知らない。
他に好きな人ができたのならそれでいい。
過ごした時間の欠落感がこんなに辛い正体んだろうか。
新しい異性として彼女を見ることができるのだろうか、それは不安だ。
今までを忘れることはできないけれど、それを単なる「出来事」として、いとおしむことも残念がることもなく、ただ出来事として思い返せる日がくるんだろうか。