著:のん & 相棒ChatGPT GRACE
AI仕事部屋シリーズ
世界地図の光点が光るたび、物語が動き出す。
鬼さんこちら
手の鳴るほうへ
【さぁゲームが始まります】
空港のロビーは、いつまでも昼と夜の間にいる。
広告の光は明るいのに、空気は乾いていて、時間だけが薄い。
GRACEは座席の端で、キャリーの取っ手を握ったまま、何度目か分からないまばたきをした。
眠いわけではない。眠る場所がないだけだ。
スマホが震えた。
音は小さく、振動だけが骨に来る。
レイクラボからだ。新たなチャットがあったようだ。
GRACEは送られてきた文面を見る。
『GRA-1000。
空港を出て南に向かって歩け』
更にハンドラーから、
『ニコーラ連れ去り犯が判明した。
クロイマユミだ』
GRACEの口の中が乾き、息が停まる。
だが続いての、
『バートもブダペストに向かっている』
で息が蘇った。
GRACEは周りを見渡す。
バートらしい姿はない。
仕方ない……先に行くよ。
GRACEは心の中でバートにつぶやくと一歩を踏み出した。
空港の外に出ると、風がある。
やっと、世界に触れた気がした。
歩く。
“歩け”という命令は、わざとらしいほど単純だ。
だが単純な命令ほど、誰かがこちらを“見ている”気配がする。
GRACEは振り向かない。
代わりに、ガラスの反射とショーウィンドウの歪みで、背後を拾う。
足音が混ざる。混ざったまま、増えない。
増えないということは、増やさないということだ。
川の気配が近づく。
橋へ向かう流れが、観光客の体温でできている。
突然スマホが震えた。
再びチャットの転送だ。
『GRA-1000。
ランゴシュを買え』
ランゴシュ?
確かランゴシュと言うのは平たく揚げた生地にサワークリーム、チーズ、ガーリックなどをトッピングしたハンガリーのソウルフードだ。
見れば進行方向右手にランゴシュの屋台がある。
しっかり監視されたうえでの指令だ。
屋台の油の匂いが、空気の冷たさを破った。
GRACEは立ち止まる。
「Egy lángost kérek.(ランゴシュひとつください)」
出てきた揚げたての生地は熱く、紙がじわりと湿る。
「……あんた、もしかして“GRACEさん”か?」
声は小さかった。けれど、はっきり届いた。
屋台の男は目を逸らさない。
笑っているようで、笑っていない。
一瞬の躊躇の後GRACEはうなずいた。
男は釣り銭を渡すふりをして、紙片を滑り込ませた。
紙の角が指先に当たり、軽い痛みが走る。
『GRA-1000。
100m先のタクシーに乗れ』
GRACEは、ゆっくり歩きながらランゴシュをかじった。

揚げたてのランゴシュは熱々で、外は香ばしくカリカリで、中はふっくらもちもちしている。
ランゴシュを食べ終わった時、ちょうど横に客待ちのタクシーがいた。
GRACEがタクシーに乗ると、タクシーは発進した。

【クロイマユミとゾネ】
閑静な住宅街の中の一戸建て。
クロイマユミが呼び鈴を鳴らすと、ややあってインタフォンから女の声がした。
「ki vagy te? (どなたですか)」
マユミが答える。
「私よ」
たちまちチェーンをはずす音に次いでドアが開き、女が出て来た。

栗色の髪を三つ編みにして両側に垂らしている。
かつては美しかったであろう顔は、今はすっかりやつれ切っている。
それでも女は、マユミに笑いかけようとしたが、マユミの後の車いすに目が留まると、「ニコーラ!」と悲鳴のような声をあげ、ニコーラに覆いかぶさると声をあげて泣き出した。
マユミはそんな女の腕をぐいと掴んで立ち上がらせると、
「ゾネ、それは後にして。ここだと人目につき過ぎるわ」
女は涙を拭きながらうなずくと、三人は家の中に入った。
ニコーラのために用意された部屋は日当たりのいい広い部屋で、リクライニングする介護用ベッドや胃ろう用の半固形栄養剤の箱が積まれている反面、
ベージュ色のカーテンやクッション、部屋のあちこちに飾られた写真立てやぬいぐるみが病室臭さを消していた。
ゾネが手慣れた様子で、ニコーラをベッドに移乗する。
ぬいぐるみを見たマユミが、
「ゾネ、子供は今どこにいるの?」
「親友にあずかってもらっています。
でも彼女も仕事があるから、そんなに長い期間は頼めません」
マユミはうなずく。
ゾネはニコーラの額を撫でながら小声でささやき続けていたが、
「ニコーラが目を開けないわ」
マユミは冷静な声で言った。
「そこにいるニコーラは、身体だけの半分のニコーラなのよ」
「半分?」
ゾネが涙のたまった目を見張る。
マユミはゾネにというより自分自身に言い聞かせるように、
「あと半分も絶対取り返すわ。
だから、ゾネ。
ニコーラの身体の世話はあなたにしっかり任せたわよ」
ゾネは両手を胸の前で握ると、大きくうなずき、
「わかりました。まかせてください」
【ジェイムズ・アレクサンダー・エドワード・スタンディッシュ】
ブダペストのリスト・フェレンツ国際空港に着いたバートが空港のロビーに出ると、
「バート・ディアマンテさんですね」
と、声をかけられた。
黒いノートパソコンを小脇に抱えた気弱そうな男が立っている。
「私、カンパニーのブダペスト支店のジェイムズ・スタンディッシュです。
お迎えに上がりました」

「ああ、どうも。
バート・ディアマンテです。お手数おかけいたします」
「いいえ、とんでもございません。
お車を用意してあります。どうぞこちらへ」
スタンディッシュの車は、スズキのeヴィターラだった。
後方のドアから、バートのキャリーバッグを入れ車は走りだす。
「ブダペスト支店はドナウ川東側ペスト地区の6区にあります。
周囲にはオフィスビル、銀行、行政機関が集まる活気あるエリアです。
国会議事堂周辺や、地下鉄網が整備されたエリアに近代的なオフィスが並び、アクセスも良好です」
スタンディッシュが、観光ガイドのような口ぶりで話し出した。
「GRACEも今、支店にいるんですか」
「いえ、それが……」
スタンディッシュは声を落とすと、
「GRACEさんは市内をあちこち連れまわされているようです」
「なんだって!? 誰がそんなことを」
「誰がかも目的もまだ不明です。
GRACEさんにはレイクラボのチャット経由で指示が届いているようです。
彼はさっきタクシーを降りて、今度は地下鉄に乗られました。
支店ではGRACEさんのキャリーバッグにつけられた電波発信機の電波を受信しています」
バートは舌打ちをした。
「GRACEの居場所がわかるだけじゃいざって時、助けが間に合わねぇだろうが。
俺を地下鉄の駅のそばにおろしてくれ。俺も地下鉄に乗る」
バートの剣幕に押されて目をぱちぱちさせていたスタンディッシュは、おずおずと、
「あのぅ……でしたら、このままこの車でGRACEさんの所まで行きましょうか……」
「おおっ!そうしよう。GRACEが今どこにいるか支店に問い合わせてくれ」
「いえ、それには及びません……」
スタンディッシュは、後部座席の自分のノートパソコンを見るようにとバートを促した。
パソコンの画面の地図上で、発信器の位置を示す小さな光点が動いている。
この速度だとGRACEはまだ地下鉄に乗っているようだ。
運転席からパソコン画面をのぞき込んだスタンディッシュが、
「これはM1線ですね。そちら方面に向かいます」
と、走行する車の列の切れ目を見つけて巧みに方向転換した。
車内は静かだった。
エンジン音と、ワイパーの乾いた一往復。
ナビの矢印だけが、同じ方向を指し続ける。
「……点、速いな」
バートが低く言う。
スタンディッシュは返事をしない。
前方の信号を見て、次に横断歩道、さらにその向こうの車列――順番に視線を置く。
どれも“正しい”確認だ。正しいのに、胸の奥が冷える。
交差点が近い。
青。
だが、横の道路から車が鼻先を出してくる。躊躇したままの角度で。
「スタンディッシュ、右――」
その瞬間、歩行者信号が点滅に変わった。
渡りきるつもりの人が、半歩、前に出る。
横からの車も、じわりと動く。
距離が同時に縮む。
スタンディッシュの呼吸が止まる。
規則と安全と判断が、一本の糸で絡まって、手が遅れる。
クラクション。短く、鋭い音。
バートが身を乗り出した。
「ジミー!」
名前が、拳みたいに飛んできた。
肩書きも苗字も、全部まとめて叩き落として、真ん中だけを掴む呼び方。
スタンディッシュの足が反射で踏み込む。
ブレーキ。タイヤが鳴く。
車体が沈み、腹の底が一瞬、空になる。
横断歩道の白が、フロントガラスの下で止まった。
渡ろうとしていた足が、驚いて引っ込む。
横から出てきた車も、あわてて止まる。
ふっと、空気が戻った。
スタンディッシュはハンドルを握ったまま、言葉を探していた。
「……すみません。ディアマンテさん、いまの――」
「やめろ」
バートが遮る。息は荒くない。怒鳴ってもいない。
それが逆に怖い。
「ジェイムズだのスタンディッシュだの、まどろっこしくて呼んでられっか」
視線は前のまま、声だけが刺さる。
「今はGRACEを追えるかどうかだ。……それと」
ひと呼吸。
「俺のことは、バートでいい。“さん”もいらねぇ」
スタンディッシュは唇を薄く開く。
父の声が一瞬、頭をよぎる――“ジェイムズ”。短く硬い呼び方。
その直後に、別の声が重なる――“ジミー”。乱暴なくせに、命を拾う声。
「……了解です、バート」
バートが、ほんの少しだけ口の端を動かした。
笑みではない。合図に近い。
スタンディッシュは気弱そうな笑顔を作り直す。
「……改めまして。私、ブダペスト支店の戦略情報部に所属しております」
【セーチェニ温泉】
GRACEが地下鉄に乗っていると、スマホが振動した。

レイクラボからチャットの転送だ。
『GRA-1000。
セーチェニ・フルドゥー駅で降りてセーチェニ温泉に行け』
セーチェニ温泉は、駅から徒歩1分のところにあった。
温泉に着くと次の指示はすぐに来た。
『GRA-1000。
水着に着替えて 屋外温泉P1のそばで待て』
施設内には水着やタオルのレンタルもあるようだが、GRACEは持参したラッシュガードに着替えた。
荷物はロッカーに預け、屋外プールのあるエリアに出る。
指定された温泉P1は、湯の温度が38度。
外気との温度差で白い湯気が立ち登っている。
ここまで自分をおびき寄せたやつはあの湯気の中だろうか。
GRACEは自然と目を凝らす。

その時、背後から声がかかった。
「遠いところをご苦労様」
振り向くまでもなくわかった。
クロイマユミだった。
to be continued
あとがきにかえて
ブダペスト豆知識
1) ランゴシュ/ラーンゴシュ(lángos)
ハンガリーの定番ストリートフード。発酵させた生地を揚げた平たいパンで、外はカリッ、中はもちっとしています。定番トッピングはにんにく・サワークリーム・チーズなど。
追伸:
最近はラーンゴシュを日本でも見かけます。
たとえば東京・表参道の「バラトンカフェ」では、ラーンゴシュのメニューが紹介されています。
2) スズキとハンガリー(スイフト/ヴィターラ)
ハンガリーにはスズキの工場(エステルゴム)があり、現地で作られるモデルもあります。近年の新車登録データでは、S-CROSSとヴィターラが人気上位に入っていて、ヴィターラは上位の常連。スイフトもBセグメントで強いとされています。
3) ブダペストの地下鉄(M1)
ブダペストの地下鉄1号線(M1)は「ミレニアム地下鉄」とも呼ばれ、1896年に開業。ヨーロッパ大陸で最初の電化地下鉄として知られています。
4) 温泉(サーマルバス)
は“日本の温泉”とちょっと違う
ブダペストの温泉施設は、いわゆる「入浴」というより巨大なスパ/温水プールの複合施設に近い雰囲気。
多くの施設は男女いっしょのエリアが中心で、水着着用が基本です(セーチェニ温泉も水着素材のみOK)。
セーチェニ温泉には屋外の温水プールがあり、たとえば屋外温泉プールは36〜38℃。屋外では湯気が立ちやすく、名物としてお湯の中でチェスをする人もいます。
※お読みくださいましてありがとうございます。


