【白村江の戦いの影響はいつまで続いたか】
蓑原俊洋氏は、
「白村江での敗戦の影響はいつまで続くのですか」(論点8)、
と質問している。
本郷和人氏は、
表面的にはその後攻撃されることがなかったので
すぐに収束したと言えるが、
外国から攻められるかもしれないという危機感から
天智の統一政権ができたので、
広い意味での影響はずっと続いたと言えるかもしれない、
と答えている。
その後日本列島内の平和な状態に話題は移る。
本郷氏は、
遣唐使が何度も唐に行き、
長安などの都城の作り方を知っているにもかかわらず、
日本に城壁が築かれなかったことをあげて、
国内が平和な状態が続いていたという見解を示し蓑原氏と一致する。
本郷氏は、
その他信州諏訪にも独立国があったが、
地域通しの戦いの話は出てこないことを例として取り上げた。
少なくても古墳時代以降の発掘を見ても激しい戦いの痕跡がないので、
比較的平和な状態が続いたということで二人の意見は一致している。
二世紀の終わりに「倭国大乱」があったことが魏志倭人伝に記されているが、
その後に卑弥呼が出てきてからは16世紀の織田信長の出現まで、
多少のいざこざはあったものの
強大な軍隊で相手を叩き潰すような戦いは起きていない。
敵対しそうな勢力に対して、
銅鏡や鉄剣などの「貴重な宝物を配ることで、
戦うことなく屈服させることができた。」と、
蓑原氏は理解したようだ。
【考察】
白村江の戦いの後、
日本書紀は郭務悰が2,000人を率いて筑紫に来航したことを記している。
唐が倭国占領のために駐留軍を派遣したとする考え方もある。
中村修也氏は、
唐の駐留軍は瀬戸内海を通って大和までやってきた、
とする説を発表した。
(『天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ』、2015年NHK出版)
朝鮮半島においては、
7世紀中頃から高句麗、百済、新羅三国間の争いが絶えず起こっており、
新羅を援助する形で唐が参戦し半島全体に戦火が広がる勢いだった。
戦禍が日本列島にも及ぶのではないかと考えるのは当然のことで、
天智天皇の近江遷都もその一環と考えてよいだろう。
天智政権は律令制を模索して国の統一性を強化しようとした、
とする本郷氏の考え方も筋が通っているように感じる。
本郷氏は当時の国内に、
「北陸には越国、関東には毛野国、山陰には出雲国、
その他信州諏訪にも独立国」があったとしているが、
なぜ朝鮮半島に直面する筑紫に国家があった可能性に触れないのであろうか。
隋書には俀国に「阿蘇山あり」と記されており、
旧唐書に記された(日本国とは別種の)倭国は筑紫にあった、
と考えるのが自然だと思うが、あえて避けているようにも感じる。
日本列島内では中心となっている国が対抗馬になりそうな国に対して
宝物を贈ることによって服従させている、
という解釈は興味深いと思った。