【郭務悰の来訪】

(天智三年:664)

夏五月十七日、百済鎮将劉仁願、

       朝散大夫郭務悰等を遣わして、表函と献物を進呈した。

冬十月一日、 郭務悰等を発遣する勅を宣した。

この日、   中臣內臣は、沙門智祥をつかわして郭務悰に物を賜与した。

四日、    郭務悰等を饗応した。)

十二月十二日、郭務悰等は帰国した。

是歲、    対馬島・壱岐島・筑紫国等に置防人と烽を置く。

       又筑紫に大堤を築き貯水した、名付けて水城という。)

以上が天智三年(664)最初に郭務悰が来訪した時の日本書紀の記述である。

郭務悰等は百済の鎮将劉仁願によって倭国に派遣され、

表函と献物を進呈した。

白村江の戦の9か月後のことである。

その5か月後の同年10月に、郭務悰等を送り出す勅が発令され、

同日に中臣内臣が僧侶の智祥を派遣して、物を郭務悰に与えている。

その3日後、智祥は郭務悰らに饗応された。

12月に帰国の途についている。

郭務悰の役職が記されている。

「朝散大夫」

唐の位階で従五品下だという。

日本の律令の従五位下に相当するとすると、

貴族に通じるという意味で「通貴」と言われる位階。

貴族ではないがそこそこの位階ということになる。

日本書紀は百済を占領している唐の占領軍のトップである

鎮将劉仁願によって派遣されたと記している。