【重複記事の内5年を隔てた記事】
天智四年八月条、
「長門国に築城させる。 中略
筑紫国に大野城及び椽城の二城を築かせる」と
九年二月条、
「長門に城一つ・筑紫に城二つを築く。」
上記は5年を隔てた同一記事で、
築城という内容からまちがいなく重複していると考えられる。
月の表記も築かれた三城のどの城のどの段階の記述かによって
異なることも理解できる。
【2年を隔てた記事】
「小錦中河內直鯨等を大唐に遣使した。
佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百余人を
近江国蒲生郡に遷居させた。
又大唐は郭務悰等二千余人を遣わした。)」と
「対馬国司、筑紫大宰府に遣使して、
『今月の二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が
唐から来て、
《唐国の使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、
合わせて二千人が船四十七隻に乗って、比智嶋に停泊し、
それぞれが語るには、今我々一行の人数と船の数が多いので、
いきなり海岸に到着すると、防人が驚き恐れて射戰になるかもしれない。》
と言うので、道久等を先に遣わしてあらかじめ来朝の理由を述べる』
と言った。」
八年是歳条は、
白村江の戦以降の唐との交渉をいろいろ述べている。
河內直鯨を大使とするっ遣唐使を派遣し戦後処理を行い、
百済から避難してきた人々700人余りを近江国に居住させたりした。
唐は郭務悰をトップとする2000人(おそらく駐留軍か)を送り込んできた。
十年十一月十日条には、
唐の一行がやって来た時の詳細を述べているように読むことができる。
唐の軍隊が郭務悰をトップに六百人、沙宅(佐平?)孫登等を送使とした千四百人、
合わせて二千人が筑紫に向かうが戦うつもりではないことを
対馬国司が筑紫大宰府に報告してきたことが記されている。
このふたつの記事に関してはいろいろな見方をすることができそうだが、
白村江の戦が倭国に与えた影響を考えるときに
非常に重要なことが含まれている。
〈670年、羅唐戦争(670~676)勃発〉
天智八年(669)条と天智十年(671)条の間には
韓半島で重大な事態が起きている。
670年に、
同盟を結んで百済と高句麗を滅亡させた唐と新羅が戦争を始めたのだ。
天智八年に郭務悰が二千人の軍隊を率いて筑紫にきた時には、
唐は倭国を百済・高句麗と同じように
羈縻政策で支配することをもくろんでいたのだろう。
しかし新羅との関係が急激にに悪化すると、
日本列島にかかわっている余裕がなくなり、
倭国を敵に回さぬように政策を転換したと考えられる。
十年に白村江の戦でとらえた倭国の捕虜を返還したのも
その一環であったと思われる。
日本書紀の2年を隔てた記事はそれぞれが独立した事象であり、
東アジア情勢の大きな変換点をあらわしているといえるだろう。