【岩波版『続日本紀一』の補注「藤原京・藤原宮」】

岩波書店新日本古典文学大系12『続日本紀一』の補注1―一〇三は

「藤原京・藤原宮」と題して2ページ近い論考を掲載している。

(一)日本書紀にみられる造営の経過:

この中では持統紀の中の藤原宮建設のための

宮地や新益京の視察が記された記事を10ヶ所紹介している。

(二)藤原京の占地とプラン:

藤原京が壬申の乱以前に造られていた古道を

東西南北の京極として利用して

京内部の条坊を造成したことなどが記される。

(三)藤原宮の殿舎とその配置:

朝堂院内が十二堂によって構成され前期難波宮と同様であること。

大極殿と朝堂院が回廊で隔てられているのは

後期難波宮や長岡宮と同じ構成で前期難波宮とは異なっている。

朝堂院の東西幅230mは前期難波宮とほぼ同じ。

以上のように前期難波宮との共通性が多いことに注目しながら

回廊の配置は後の後期難波宮・長岡宮と共通であることを指摘している。

【「倭京」とのかかわりは?】

この論考の最後に条坊制に即した道路の痕跡が

宮内からも検出されていることから、

宮内の建物が建てられる以前に条坊制の道路が

宮域予定地にも造られている。このことは、

「藤原京と藤原宮がそれぞれどのような過程を経て

造営されたかに関して問題を提起するものであるとともに、

書紀の藤原宮造営以前の記述にみえる〈倭京〉の建設を

いかに評価するかという問題にもかかわる事柄である。」

【天武紀上の「倭京」と先行条坊のかかわりは?】

書紀の壬申の乱の記述の中に出てくる「倭京」の実態について

はっきりした説明を聞いたことがなかった。

多くの研究者は斉明天皇が都とした「後飛鳥岡本宮」のことであろうと

漠然と認識しているのかもしれない。

しかし壬申の乱に勝利した大海人皇子は

戦場となった場所を巡行した後に、

倭京に詣でて嶋宮に入り、

三日後に嶋宮から岡本宮に移る。

是歲、宮室を岡本宮の南に設営しその年の冬には遷り、

その宮を飛鳥淨御原宮といった。」

と記されているので、

「倭京」は「嶋宮」とも「岡本宮」とも「飛鳥淨御原宮」とも異なるのは

明確である。

飛鳥に戻った天武が最初に「詣」でた「倭京」とは何を指すのか、

藤原宮の先行条坊の存在から探ることができるのかもしれない。